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古代史を考える

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項目

kd04-01 和邇氏のルーツを考える
kd04-01.01 湖西地区に存在する遺跡や古墳・古墳群
kd04-01.02 古事記から見た和邇氏
kd04-01.03 日本書紀から見た和邇(和珥)氏
kd04-01.04 その後

 

[和邇氏のルーツを考える]

作成:2013年06月17日
更新:2014年01月03日

前にも書きましたが、私の住んでいる所は滋賀県大津市衣川という所です。ちょうどJR湖西線の「おごと温泉」駅と「堅田」駅の中間辺りに位置します。「堅田」駅から湖西線を近江今津方面に向かうと、「小野」駅、「和邇」駅と駅名が続きます。小野は、小野妹子、小野道風の出所として知られていますし、和邇は和邇部(あるいは和邇部臣)に関係深い地名と言われています。湖西線の西側の丘陵地一体、和邇から真野、衣川にかけては多くの遺跡や古墳、古墳群が存在しますが、中でも春日山古墳群はその墳墓の数が210基を超えており、墳長60m級のE12号墳(前方後円墳)は4世紀中葉〜後葉の構築、同じく墳長60m級のE1号墳(前方後円墳)は4世紀末〜5世紀初頭の構築と推定されています。

そんなことから和邇氏、小野氏については少なからず関心があったのですが、ひょんなことから「和邇」と古事記の関係に気付きました。稲羽(因幡)の素兎(しろうさぎ)の話ですが、何故古事記には唐突に稲羽の素兎の話が出てくるのだろうか、ずっと疑問に思っていました。鮫(わに)を騙してその背中を飛び移りながら隠岐の島から稲羽に渡った兎が、騙されたことを知った鮫に丸裸にされて苦しんでいるのを大國主神(オホクニヌシノカミ)が助けたという話。古事記は、この話でいったい何を伝えようとしているのか、何かの意味があるはずです。何かの本で読みましたが、兎の赤裸を治すために蒲の穂を使った大國主神は薬草や医療の技術・知識を持っていたとありました。しかしそんなことを後世に伝えるための話としては少し突飛なように思います。もっと重要な事実を伝えようとした寓話ではないかと思うのです。

「岩波文庫/古事記(倉野憲司校注。以下、古事記)」では、兎に騙されたことを怒って兎を丸裸にしたのは鮫ですが、何気なく原文を見て驚いたのは実は「和邇」と書かれているのです。割注には「此二字依音」とあるので、漢字の意味はなく、単に「わに」という音を漢字表記したものであるというのが割注を書いた人物の見解です。倉野憲司氏はこれを「鮫(わに)」としたわけです。ところで、古事記原文には鮫と解釈された「和邇」は三か所出てきます。その一はこの稲羽の素兎の話。その二は海幸彦・山幸彦の話で、山幸彦を綿津見神(ワタツミノカミ)の宮から地上に送り返した一尋和邇(ひとひろわに)。その三は山幸彦の妻となって天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)を生んだ綿津見神(ワタツミノカミ)の娘、豐玉毘賣命(トヨタマビメノミコト)の正体が八尋和邇(やひろわに)であったという記述。

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命は、神武天皇(ジンムテンノウ)の父ですから、八尋和邇は神武天皇の祖母ということになります。更に、神武天皇の母はその八尋和邇である豐玉毘賣命の妹、玉依毘賣(タマヨリビメ)なのです。従って和邇(族)は紛いも無く初代天皇の母方の祖であるというわけです。ふむー。。。。これはなにか重要な意味が「和邇」には込められているというのが私の素朴な感想です。
「和邇」は単に魚類の鮫を意味しただけでなく、もっと本質的な隠された意味を持っていたのではないか。三つの「和邇」に共通するもの、それは海を渡る能力、即ち船であり、それを使って航海する能力を持った人々(族)を指しているのではないかということです。

と、まあ前置きというか、このテーマについてすこし勉強してみようと思った動機をとりあえずは書いてみました。これから勉強しながら少しずつ纏めてはその本質に迫っていこうと思います。

湖西地区に存在する遺跡や古墳・古墳群

作成:2013年06月17日

まずは当該湖西地区に存在する遺跡や古墳・古墳群として認知されているものを調べました。ネット上で以下の3文献が見つかりました。

文献1.
滋賀県文化財保護協会 紀要1号 5.衣川廃寺の再検討 細川修平 1988年3月

文献2.
滋賀県文化財保護協会 紀要8号 大津市春日山古墳群分布調査報告 岩橋隆浩、他 1995年3月

文献3.
名古屋女子大学 紀要 50 古墳時代後期群集墳論−志賀郡北部の階層性− 丸山竜平 2004年

遺跡や古墳・古墳群から和邇氏に直結するような証拠品は見つかっていませんが、地名の和邇と多くの遺跡や古墳の存在から、この地域は古代の豪族、和邇氏とその関連氏族の拠点であった可能性は高いと思います。

以下の図1.及び図2.は国土地理院(電子国土ポータル)の地図・写真情報に、文献2.に記載された遺跡・古墳・古墳群の画像データを上書きしたものです。個々の遺跡や古墳についての詳細はまた別の機会に触れるとして、参考情報として掲載します。なお、図2.の春日山古墳群については、小規模古墳は画像が煩雑になるため省略しています。

図1.湖西地区(和邇・小野・真野・堅田・衣川・雄琴・苗鹿)に分布する遺跡と古墳

湖西地区遺跡画像

 
図2.春日山古墳群(真野)〜衣川の遺跡と古墳(航空写真)

春日山古墳群画像

衣川にある衣川廃寺跡は、7世紀末に廃寺となった未完成の寺院の遺跡です。瓦を焼いた窯跡が発掘されていますし、6種類にのぼる軒丸瓦が出土しています。それらの瓦の様式の変遷から、620年〜680年頃にかけて、長期間にわたり寺が建立されたものと考えられています。620年〜680年は、推古天皇、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇の時代ですが、天智天皇(大津京)時代に寺院建立の政策が変わり、和邇氏族の氏寺であった衣川廃寺が重視されなくなったか、多くの職工が他の寺院建設に取られたために廃寺となった可能性が指摘されています。

古事記から見た和邇氏

作成:2013年07月05日

まず古事記に登場する和邇氏について調べてみました。我田引水ながら、古事記(および日本書紀の一部)の内容を調べるのは当ホームページ「古事記データベース」の用語検索を使えば簡単です。キーワードに「(わに」または「(ワニ」と入力して全文検索すると、「漢字名(わに」または「人名(ワニ」という文字を含むすべての記事が検索されます。古事記では「丸邇臣(わにのおみ)」「丸邇(わに)」「丸邇坂(わにさか)」、日本書紀の一部では「和珥臣深目(ワニノオミフカメ)」などを含む記事が検索されました。ということで、まず古事記の検索結果を纏めてみました。

記事1. 丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)の妹、意祁都比賣命(オケツヒメノミコト)が開化天皇(カイカテンノウ)の妃となり、日子坐王(ヒコイマスノミコ)を生んだ。

記事2. 崇神天皇(スジンテンノウ)は、山代國(やましろのくに)に居た庶兄、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)が反逆心を起こしたとして、その伯父、大毘古命(オホビコノミコト)に軍を起こさせ、丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副(そ)えて遣わした。この時、大毘古命(オホビコノミコト)は丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはいべ)(神を祭る清浄な瓶)を居(す)ゑて、出陣した。

記事3. 仲哀天皇(チュウアイテンノウ)亡き後、忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)が、神功皇后(ジングウコウゴウ)とその御子、大鞆和氣命(オホトモワケノミコト)(後、応神天皇(オウジンテンノウ))が倭に還り上るのを迎え討とうとした時、丸邇臣(わにのおみ)の祖、難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)が神功皇后(ジングウコウゴウ)と大鞆和氣命(オホトモワケノミコト)の味方となり、忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を琵琶湖にまで追い詰めて討った。

記事4. 応神天皇(オウジンテンノウ)が近つ淡海國(あふみのくに)(近江、滋賀県)に行幸して木幡村(こはたのむら)(京都府宇治郡)に到った時、丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の娘、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)に出会った。応神天皇(オウジンテンノウ)は明日帰る時に宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)の家に寄ろうと言ったので、それを聞いた父、丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)は応神天皇(オウジンテンノウ)を饗応した。その時、応神天皇(オウジンテンノウ)は次の歌を詠んだ。

この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る 伊知遲島(いちぢしま) 美島に著(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息(いき)づき しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし 嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも gaiji043.gif並(はなみ)は 椎菱(しいひし)如(な)す 櫟(いちひ)井(ゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 丹gaiji003.gif(にぐろ)き故(ゆゑ) 三(み)つ栗(ぐり)の その中つ土(に)を かぶつく 眞火(まひ)には當(あ)てず 眉畫(まよが)き 濃(こ)に畫(か)き垂(た)れ 遇はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うただけだに 對(むか)ひ居(を)るかも い添(そ)ひ居(を)るかも (歌番号四十三)

記事5. 丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の娘、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)が応神天皇(オウジンテンノウ)の妃となり、宇遲能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ)、女鳥王(メドリノミコ)を生んだ。また、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)の妹、袁那辨郎女(ヲナベノイラツメ)も妃となり宇遲之若郎女(ウヂノワキイラツメ)を生んだ。
宇遲能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は応神天皇(オウジンテンノウ)から次の天皇として選ばれたが、早く崩御したため、仁徳天皇(ニントクテンノウ)が次の天皇となった。 妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ)と宇遲之若郎女(ウヂノワキイラツメ)は共に仁徳天皇(ニントクテンノウ)の妃となった。

記事6. 仁徳天皇(ニントクテンノウ)が、秦人(はたびと)(中国からの帰化人)を使役して茨田堤(まむだのつつみ)また茨田三宅(まむだのみやけ)(大阪府北河内郡)を作り、また丸邇池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を掘って海に通わせ、また小椅江(をばしのえ)(大阪市東成区)を掘り、また墨江(すみのえ)の津(大阪市住吉区)を定めた。

記事7. 仁徳天皇(ニントクテンノウ)の大后、石之日賣(イハノヒメ)は、自分の留守中に仁徳天皇(ニントクテンノウ)が妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ))と婚(まぐは)いしたことを知り、嫉妬して難波から淀川、木津川を遡り、山代からgaiji003.gif城(かづらき)の高宮(たかみや)へ行こうとして、一時、筒木(つつき)で奴理能美(ヌリノミ)の家に入った。その時、仁徳天皇(ニントクテンノウ)が石之日賣(イハノヒメ)をなだめるために歌を送ろうと、丸邇臣(わにのおみ)口子(クチコ)を遣わした。

記事8. 丸邇(わに)の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女(ツノノイラツメ)が反正天皇(ハンゼイテンノウ)の妃となり、甲斐郎女(カヒノイラツメ)、都夫良郎女(ツブラノイラツメ)を生んだ。また都怒郎女(ツノノイラツメ)の妹、弟比賣(オトヒメ)も妃となり、財王(タカラノミコ)、多訶辨郎女(タカベノイラツメ)を生んだ。

記事9. 雄略天皇(ユウリャクテンノウ)は、丸邇(わに)の佐都紀臣(サツキノオミ)の女(むすめ)、袁杼比賣(オドヒメ)を婚(よば)ひに、春日(奈良県の東部)に幸行した時、媛女(をとめ)に道で逢った。

記事10. 丸邇(わに)の日爪臣(ヒツマノオミ)の女(むすめ)、糖若子郎女(ヌカノワクゴノイラツメ)が仁賢天皇(ニンケンテンノウ)の妃となり、春日の山田郎女(ヤマダノイラツメ)を生んだ。

これを整理してみると、まず丸邇臣の祖とされている人物は、開化天皇治世の日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)、崇神天皇治世の日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)、神功皇后治世の難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)の3人です。この内、日子國意祁都命は娘を天皇の妃として指し出しています。

次に丸邇臣または丸邇系とされている人物は、応神天皇治世の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)、仁徳天皇治世の口子(クチコ)、反正天皇治世の許碁登臣(コゴトノオミ)、雄略天皇治世の佐都紀臣(サツキノオミ)、仁賢天皇治世の日爪臣(ヒツマノオミ)の5人です。この内、比布禮能意富美、許碁登臣、佐都紀臣、日爪臣は各々娘を天皇の妃またはそれに準じる地位に指し出しています。

つまり、丸邇系氏族は開化天皇(9代天皇)から仁賢天皇(24代天皇)に至る16人の天皇の内、5人の天皇に妃またはそれに準じる地位に娘を指し出している有力氏族であると言えます。

次にこれら丸邇系氏族はどこに居を構えていたかを考えてみます。「記事2」と「記事4」に丸邇坂(わにさか)という地名があります。これは、奈良県天理市櫟本(いちのもと)町瓦釜にあるとされているようです。JR桜井線檪本駅の北東約1.2Km に和爾(わに)町があり、ここに和爾坐赤阪比古神社があり、その近くに「和珥(わに)坂下傅稱地」の石碑があります。いつ頃誰が建てたか未詳ですが、天理市教育委員会が立てた案内板には、

「古事記や日本書紀には、和爾坂下あるいは和爾坂とよぶ地名があります。日本書紀神武天皇に関する記述には「和珥の坂下に巨勢祝(こせのはふり)という者あり」とあります。これは神武天皇が大和を平定した際に逆賊として倒された巨勢祝という土豪が、和爾坂下に所在していたことを示しています。古事記の応神天皇に関する記述には和爾氏の娘、宮主矢河枝比売(やかはえひめ)との出会いが記載されています。和爾氏がもてなす宴会で披露した天皇の長歌の中に「・・・櫟井の和爾坂・・・」とあります。櫟井は、現在の櫟本付近の事で和爾坂がこの地域まで含まれる地名であったことが分ります。また崇神天皇に反旗した山代の武埴安彦を征伐する説話があります。古事記には「丸邇臣の祖、日子玖命を副えて遣わしし時、即ち丸邇坂に忌瓮(いはいべ)を居えて罷り往きき」とあり、和爾氏の祖人、彦国葺が武埴安彦の征伐に出陣する際に戦勝祈願を和爾坂で行っていたようです。 −天理市教育委員会−」

と書かれています。上記2つの記事やその地名から推定すれば、この丸邇坂の辺りでは焼き物に適した土があり、土器を焼いていたものと思われ、崇神天皇治世には、この地の丸邇氏は焼き物の技術を持っていたと考えられます。

「記事4」にはもう一つ丸邇氏の居住地を推定させる記載があります。応神天皇が京都府宇治郡木幡村で、丸邇の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の娘、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)に出会ったわけですから、当然この丸邇氏はその辺りに居住していたわけです。つまり、応神天皇治世には、京都府宇治郡木幡村にも和邇氏が居たことになります。ただし、奈良県天理市櫟本の丸邇氏と京都府宇治郡木幡村の丸邇氏が同一であったのか、別系統であったのかは不明です。また「記事9」からは、雄略天皇治世に丸邇(わに)の佐都紀臣(サツキノオミ)は春日(奈良県の東部)に居たことが判ります。

隠岐の島・因幡に居た和邇、神武天皇の母、祖母であった和邇、そして滋賀県湖西南部の和邇、奈良県天理市櫟本の丸邇坂と丸邇氏、京都府宇治郡木幡村に居た丸邇氏、更に時代が下って雄略天皇治世に春日に居た丸邇氏、これらを結びつけるとどんな答えが出てくるか。。。。

結論を出す前に、もう少し考察をすすめ、「記事4」の歌は何を意味しているかを吟味します。この歌は、応神天皇が丸邇の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)が設けた宴席で歌ったもので、「この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹」から、角鹿(つぬが)の蟹が御馳走として出されたと考えられます。角鹿(つぬが)が現在の敦賀(つるが)とすれば、蟹を一日、乃至は短期日で敦賀から宇治まで運ぶことができる手段がこの丸邇氏にはあったことがうかがえるわけです。敦賀から宇治までの最短路は、現在の 161号線、敦賀−塩津−今津−堅田−大津 と来て、大津からは山科−京都−宇治 のルートです。

もっと速く運ぶには、琵琶湖の水運を利用して、塩津から大津までほとんど一直線で湖上を運ぶことができますし、大津から宇治は瀬田川を下ることができます。うーん。。。。多分私が比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)であったら、水運の方を選んでいるでしょう。つまり、宇治の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)は、琵琶湖の水運を支配している一族と関係が深かった。その一族とは、和邇−真野−堅田 周辺に居た和邇氏に他ならないのではないか。昔から琵琶湖の水運に用いられてきた小舟を丸子舟(まるこぶね)と言いますが、「丸」は「わに」とも読まれます。丸子舟(まるこぶね)は「わにこぶね」とも読めるわけです。和邇氏の遠い祖先が隠岐・因幡に住む航海技術を持った一族であったとすれば、その流れを組む一族が琵琶湖西岸に住んで、琵琶湖の水運を担っていたとしてもなんら不思議はないですね。

ということで、滋賀県湖西南部の和邇系氏族と京都府宇治郡木幡村に居た丸邇系氏族が結びついてくることがうかがえるわけです。ではこの和邇(丸邇)系氏族はどこから来たのか。調べてみると、若狭(三方郡美浜町佐柿二九−二)に 日吉神社(美浜町) というのがありました。その由緒沿革に、<『普光山記残片』(僧道勝記)に「当地の産土神を和爾部神という。斎神は和爾部の祖を祀る。慶雲元年(七〇四)四月十四日創建。寛平元年(八八九)近江国坂本山王宮の分霊を合祀す。これより山王大権現と崇号す。和爾部神社は延喜式にあり」と記している。>とあり、和爾系氏族に関わる神社伝承が残っています。これを重視すれば、隠岐・因幡−若狭(美浜、敦賀)−西近江(和邇、真野、堅田)−宇治(小幡)がつながってきます。これらの共通点は、船(造船、沿岸航海技術)であり、その行き着いた先が宇治(小幡)であったということになるのではないか。ということです。

では天理市櫟本の丸邇系氏族はどこから来たのか。こちらは少なくとも崇神天皇治世には居たわけですから宇治(小幡)の丸邇よりも古い存在です。従って、隠岐・因幡をルーツとする宇治(小幡)の丸邇系氏族の一部が天理市櫟本に移ったと考えるよりも、別のルートでここに来た丸邇系氏族と考えた方がよさそうです。
ここで神武天皇の東征物語が重要な意味を持ちます。東征に不可欠な船を準備し、航海する技術を持っていたのは誰だったのか。神武天皇の母と祖母はどちらも和邇です。母方の氏族である和邇(族)がそれを担ったのではないか。和邇族が神武天皇と共に熊野−宇陀から橿原に入ったと考えれば、その和邇族の子孫が天理市櫟本に居たとしてもなんら不思議はないですね。そして内陸に住めば造船や航海技術は必要なくなり、神聖な土器を焼くという役割に変わっていったのではないだろうか。この氏族はもともと航海技術と焼き物技術をもった氏族であった可能性が高いと思います。そして時代が下り雄略天皇治世には、春日に移り住んでいたと考えられます。

ちなみに、滋賀県湖西南部・衣川にある衣川廃寺跡(7世紀前半中頃〜後半中頃)からは瓦を焼く窯跡が発掘されていますし、周辺には6世紀後半に創業したと見られる天神山窯跡群があります。これらの遺跡は、丸邇系氏族が航海と焼き物という二つの技術をもった技術集団であったことを強く示唆しています。さて、ここから先はあまり論拠のないお話です。多分、和邇氏のルーツは、朝鮮半島の沿岸地方に住む造船・航海・焼き物の技術を持つ技術集団だったのではないか。それが渡海して山陰地方に住み、東西に分かれて移動、東に移動した集団が若狭から内陸に入り、滋賀県湖西南部、京都府宇治に分布した。一方西に移動した集団は九州北部から豊後水道、日向灘を南下、宮崎県日向(ひゅうが)辺りで内陸に入ったのではないか。そして西都原古墳群の船形埴輪や家形埴輪を作ったのはこの集団ではないのか。神武天皇の母や祖母を天孫族に差出し、神武天皇が東征のために日向を発った時、その船を準備し、航海を担ったのはこの和邇族だったのではないのか。などなど、妄想はどんどん広がります。

まあ、最後に書いた妄想はさておいて、ここまでは古事記をもとに考察してきました。次は日本書紀から見た和邇(和珥)氏について古事記と対比しながら考察したいと思っています。

日本書紀から見た和邇(和珥)氏

作成:2013年07月10日

古事記と日本書紀を対比して読む場合、その編纂方針に決定的な違いがあることに留意する必要があります。古事記では、一つの事績に対しては一つの伝承しか記述していません。これはその序にあるように天武天皇が「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家の画像文字_もた(もた)る帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虚僞を加ふ』・・・・中略・・・・故(かれ)これ、帝紀を撰録し、舊辭を討覈(とうかく)して、僞(いつは)りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と述べたとする編纂方針と一致しています。ところが日本書紀の方は、編纂方針には全く触れず、一つの事績に対して概ね次のような記述形式を採用しています。

<最初の記事>
一書に曰く、<異なる記事1>
一書に曰く、<異なる記事2>
・・・・・

この記述形式では、<最初の記事>が定説で、<異なる記事N>は参考であるという印象を読む者に与えそうです。しかし、日本書紀はそんなことはどこにも触れていません。「どれが定説か定かではありません。いろいろな伝承があって、たとえ矛盾した記述があっても、私は責任が負えないので読者が判断してください。」と暗にほのめかしているのです。一見公平に見えますが、実は伝承を安易に歪め、読む者を幻惑させることを意図したのではないかと勘繰りたくなるような編纂方針なのです。その一例を次に紹介しましょう。

それは、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)(山幸彦(ヤマサチホコ))の妻となった豊玉姫の正体に関してですが、<最初の記事>では「竜(たつ)(原文は龍)」、<異なる記事1>では「八尋(やひろ)の大熊鰐(わに)」、<異なる記事2>では記述なし、<異なる記事3>では「八尋大鰐(やひろのわに)」、<異なる記事4>では記述なし、となっています。

この記事に関して、日本書紀(一)/岩波文庫(以下、書紀(分冊番号))の校柱は「。。。。(豊玉姫が)何故竜や鰐になって出産したか、またその覗き見を何故禁じたかについて諸説があるが、彦火火出見尊と豊玉姫が異なったトーテム集団に属していたからであろうという説がある。。。。」と書かれています([書紀(1) P164 注10])。校柱者にとっては豊玉姫が「龍」であっても「鰐」であってどちらでも構わず、出産を覗き見るという共通事にだけ関心を向けるよう促されているのです。

私に言わせれば、「龍」と「鰐」とでは雲泥の違いがあるはずなのに、日本書紀は、暗にそのことはよく解らないので不問にすべきであると言っているのです。あるいは、「本当は龍だった」かのように最初にそれを記載しているのです。海神の娘が「龍」だとすると、なにやら龍宮伝説を想起させ、龍宮伝説のパクリではないのかと勘繰りたくなります。また、水中を泳ぐ「鰐」なら納得と言いたいところなのですが、海中を泳ぐとなると、これも問題ありそうな気がします。

まあ、日本書紀を読む上での留意点はそれぐらいにして本論に入ります。日本書紀については全てを丹念に読んだわけではないので、めぼしい部分に的を絞って検討することにしました。従って抜け落ちてしまう箇所があるかもしれませんが、悪しからずご容赦願うこととします。

稲羽(因幡)の素兎(しろうさぎ)について

さて、まずは「稲羽(因幡)の素兎(しろうさぎ)」の話を探してみましたが、これは日本書紀には見つかりません。[書紀(1) P90-108] にかけて、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治と大己貴神(オホアナムチノカミ)(大国主神(オホクニヌシノカミ))までの系譜と国造りの話が記述されています。「稲羽の素兎」が記述されるとすればこの部分しかないのですが、日本書紀はこの話を全く無視していることになります。従って、隠岐・因幡に居た「和邇」も存在しません。古事記がこの話をでっち上げたのか、はたまた日本書紀が隠岐・因幡に居た「和邇」を隠ぺいしたのか、判断は難しいのですが、真の伝承(潤色されていない原初の伝承)をカモフラージュしているとも思える日本書紀の編纂方式を疑う立場から、私は「日本書紀の隠ぺい」説の方を取りたいと思います。

豊玉姫の正体について

次は豊玉姫の正体についてです。要点は先に書いた通りですが、[書紀(1) 巻第二 P158-194]に、概ね海幸彦・山幸彦の話の結末として記述されています。結論的にいえば、古事記では当て字の「和邇」でどのような生き物かが不明確であったものが、日本書紀では「龍」や「鰐」という具体的な動物として記述されています。もう少し詳細に見てみると
<最初の記事>豊玉姫の正体は「龍」。
<異なる記事1>山幸彦を本の国に送り返したのは「大鰐(おほわに)」、豊玉姫の正体は「八尋(やひろ)の大熊鰐(わに)」。
<異なる記事2>「鰐(わに)」や豊玉姫の正体に関する記述なし。
<異なる記事3>山幸彦を本の国に送り返したのは「一尋鰐(ひとひろわに)」または「一尋鰐魚(ひとひろわに)」、豊玉姫の正体は「八尋大鰐(やひろのわに)」。
<異なる記事4>山幸彦を本の国に送り返したのは「一尋鰐(ひとひろわに)」または「一尋鰐魚(ひとひろわに)」、豊玉姫の正体に関する記述なし。

ここで一番気になるのが「鰐(わに)」です。「鰐」は水棲の爬虫類ですから、そんな動物が海に棲息するのははなはだ疑問ですし、日本近海に棲息していた可能性も殆どないはずです。にもかかわらず「日本書紀」は「熊鰐」「鰐」「鰐魚」などとしたのです。「熊鰐」に「鰐魚」???一体何のこと???と思わざるを得ませんが、「鰐魚」が「鰐」のような「魚」とすれば「鮫」であってもあながち外れていませんね。私は、古事記の「和邇」については「古事記/岩波文庫」校注を書いた倉野憲司の「鮫」説を支持したいと思います。
ところが、、Wikipedia で調べると、この日本書紀の「鰐」説は本居宣長、森鴎外、松村武雄、折口信夫などそうそうたる方々が支持しているらしいのです。その根拠として強調されているのは

・『因幡の白兎』は明らかに南方から伝播した話である。南方では、鰐を騙す動物は鼠鹿や猿と変化があるが、騙される動物は常に鰐である。
・豊玉姫のお産の話にある陸上で腹ばいになり、のたうつ動物が鮫のはずがない。

などが強調されています。また、例外的に津田左右吉が「和邇」を「海蛇」としたらしいのですが、これも強く否定されています。

古事記に一貫して出てくる「和邇」という生き物、日本書紀の支離滅裂な「鰐」の表現、いったい真の伝承は何だったのか。。。。うむー、これは難問ですが、「和邇」やそれに類似した「和爾」という地名、神社名が残っているのですから、やっぱり「和邇」は海、船、航海などを連想させる生き物であり、種族であったと考えるのが素直な見方のように思のですが、いかがでしょうか。

天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)について
作成:2013年07月27日

日本書紀では、孝昭天皇(第5代)とその皇后、世襲足姫(ヨソタラシヒメ)の間に生まれた長子、天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)が和珥(わに)臣等の始祖とされています。弟の日本足彦国押人尊(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)が皇位を継承して次の考安天皇(第6代)になります。何故天皇とその皇后の長子である皇族が和珥臣という一氏族の始祖であるのか。一つの考え方は天足彦国押人命本人またはその子が臣籍降下して和珥(わに)氏になったという可能性です。

これを皇別というそうですが、Wikipedia によれば皇別というのは古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』(平安時代/815年編纂)に用いられた用語のようです。で、この中に皇別として 335氏があげられていて、和珥氏の流れをくむとされる大春日朝臣、小野朝臣が記載されています。和珥氏と春日氏、小野氏がどうつながっているのか、その証拠は??ということで更に調べると、同じく Wikipedia に以下の「和邇氏系図(一部修正)」が掲載されています。

                孝昭天皇
                  ┃
               天足彦国押人命
                  ┃
               和邇日子押人命
                  ┣━━━━━━━┓
                彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
    ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
  伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命
   ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
        八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
       (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)
       【安那氏祖】  【春日氏祖】  【猪甘氏祖】
               【真野氏祖】
               【壬生氏祖】

この「和邇氏系図」の原資料は何なのか、ネット上の情報を調べると、いくつかの系図資料があるようです。一つは『姓氏家系大辞典』(太田亮 著 / 初版1924-1926)、一つは『富士山本宮浅間大社の大宮司家に伝わる系図』です。『姓氏家系大辞典』の方は国立国会図書館にあるとはいえ、どちらも原資料にアクセスするのはちょっとやっかいです。とりあえず原資料の確認はおかざるを得ません。

上の系図では小野氏が出ていません。和邇氏と小野氏を結びつける系図を探すと http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-10.html にありました。一部引用すると、難波根子武振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)から小野妹子までは、難波根子武振熊命−米餅搗大臣−春日人華−岡上−野依−淵名−春日小野大樹−仲若子−妹子 となっています。しかし異説多数と注記されているので色々な伝承系図があるようで、その根拠や証拠を確認することができません。

難波根子武振熊命は前述の古事記「記事3」に出てくる人物ですが、日本書紀の同じ部分([書紀(2)神功皇后 P162])では和珥臣の祖、武振熊(タケフルクマ)とあるので、両者は同一人物とみなせます。では更に遡って古事記「記事1」「記事2」に出てくる日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)と日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)は日本書紀ではどうでしょうか。日子國意祁都命は日本書紀では和珥臣の遠祖、姥津命(ハハツノミコト)、日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)は和珥臣の遠祖、彦国葺(ヒコクニブク)となっています。まあ、古事記と日本書紀では矛盾はなさそうですね。

冗長ながら、孝昭天皇は第5代、姥津命の同時代天皇は開化天皇(第9代)、彦国葺の同時代天皇は崇神天皇(第10代)ですから、和珥臣の祖の世代が天皇の世代と同じと仮定すると、孝昭天皇(第5代)−天足彦国押人命(第6代)−?(第7代〜第8第)−姥津命(第9第)−彦国葺(第10代)となります。前述した「和邇氏系図」では ?(第7代〜第8代)が和邇日子押人命になります。うーん、?(第7代〜第8代)に相当する人物がもう一世代あってもいいようにも思うのですが。。。。

では古事記の天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)の記述を見てみます。天押帯日子命は、<春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高臣、壹師臣、近淡海國造の祖>であると割注に記述されています。日本書紀では「和珥臣等の始祖」とだけ書いているので、両者を合わせてはじめて「和邇氏系図」と一致することになります。古事記、日本書紀がどうしてこんな半端な記述をしたのか、古事記は天押帯日子命が丸邇臣の始祖であると書くことを避け、日本書紀は和珥臣等の始祖として天足彦国押人命を強調しながらもその末裔については触れていないわけですから、どうも古事記や日本書紀が成立した時には、古代の丸邇(和珥)氏と当時の有力氏族との関係について記述を避けたとしか思えません。何故。。。。不確かであったから??? ふむ。。。。何とも言えませんね。この問題はしばらく置いておくことにします。

[追記]

天押帯日子命(天足彦国押人命)についての古事記と日本書紀の微妙な違い、それを統合したような「和邇氏系図」、すっきりしない三者の関係についてはこれ以上詮索しようがないと思ったのですが、よく考えると一点決定的な矛盾があることに気付きました。それは年数です。孝昭天皇(第5代)と開化天皇(第9代)の間には考安天皇、考霊天皇、考元天皇の三人がいますが、日本書紀ではこの三人の在位年数を合わせると実に 235年になります。この年数そのものがあり得ないわけですが、「和邇氏系図」ではこの 235年間で天足彦国押人命とその子、和邇日子押人命の二人しか系図上存在しないので、更にありえない話になります。仮に二倍年歴説(神武天皇〜雄略天皇までは1年を2年として計算していたという説)を採ったとしても二世代で117年ですから長すぎます。少なくとも三世代か四世代が存在しなければならないでしょう。

つまり「和邇氏系図」の最初の部分、天足彦国押人命−和邇日子押人命−彦国姥津命 というのは、日本書紀の紀年の矛盾よりも更に大きな矛盾があることになります。そうなると、天足彦国押人命が和珥臣等の始祖というのも少し怪しくなってくるように思うのですが、どうでしょうか?何かの意図によって、日本書紀はそう書いた、あるいは書かざるを得なかったのでは? 古事記の方はそのようなややこしい問題に関わらないよう、その記述を避けた? としたら、その理由とは? ふむ。。。。難しい。やっぱりこれ以上のことはしばらく置いておくことにしましょう。

その後

作成:2014年02月03日

「孝昭天皇(第5代)の長子、天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)が和珥(わに)臣等の始祖で、春日氏や小野氏は和珥氏と同祖である」という通説(日本書紀(3)補注17-六、同(5)補注29-二三、等)は正しいか。その証拠は何か?という疑問をもう少し追求しようと悪戦苦闘しているのですが、まだすっきりした答えは得られていません。前にも書いたように世代数等の矛盾を抱えた「和邇氏系図」はあまり信用できません。となると、この通説の根拠は唯一、「古事記の孝昭記と日本書紀の孝昭紀を合体させると春日氏や小野氏、和珥氏の祖は天足彦国押人命で同一人物である」ということに尽きてしまいます。それだけではちょっと証拠不足な気がするのですが。。。。

そこでもう少し証拠となる記述が古事記や日本書紀にないか検討しようと、古事記と日本書紀の丸邇(和珥)・春日に関連する記事を整理してみました。それが以下の表です。(ただし、日本書紀の方は完全に網羅できている保証はありません。)

古事記と日本書紀における丸邇(和珥)・春日に関連する記事比較

天皇 古事記(岩波文庫) 日本書紀(岩波文庫)
神武 1   <己未(五十九年)二月>和珥(わに)の坂下に、居勢祝(コセノハフリ)という者が居たが、服従しないのでこれを討った。(第1分-P234)
孝昭 5 天皇の長子、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)は、春日臣(*)、大宅臣(*)、粟田臣(*)、小野臣(*)、柿本臣(*)、壹比韋臣(*)、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高臣、壹師臣、近淡海國造の祖である。(P93) <六十八年正月>天皇の長子、天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)は和珥(わに)臣等の始祖である。(第1分-P260)
孝霊 7 十市の縣主の祖、大目(オホメ)の女、細比賣命(クハシヒメノミコト)を妃として、大倭根子日子國玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト)(孝元天皇)を子とする。また、春日(かすが)の千千速眞若比賣(チチハヤマワカヒメ)を妃として、千千速比賣命(チチハヤヒメノミコト)を子とする。(P94) <二年二月>細媛命(ホソヒメノミコト)(一に云はく、春日千乳早山香媛(カスガノチチハヤヤマカヒメ)という。)を皇后として、大日本根子彦国牽天皇(オホヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)(孝元天皇)を子とする。(第1分-P264)
開化 9 春日(かすが)(奈良市)の伊邪河宮(いざかはのみや)に坐(ま)して、天の下を治(し)らしめした。(P96) <元年十月>都を春日の地に移した。(第1分-P270)
丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)の妹(いも)、意祁都比賣命(オケツヒメノミコト)を妃として日子坐王(ヒコイマスノミコ)を子とする。(P96) <六年正月>和珥臣(わにのおみ)の遠祖、姥津命(ハハツノミコト)の妹(いろも)、姥津媛(ハハツヒメ)を妃として、彦坐王(ヒコイマスノミコ)を子とする。(第1分-P272)
崇神 10 大毘古命(オホビコノミコト)に、丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副(そ)えて遣わし、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)を討たせた。この時丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはいべ)(神を祭る清浄な瓶)を居(す)ゑて、出陣した。(P103) <十年九月>大彦と和珥臣の遠祖、彦国葺(ヒコクニブク)とを遣わして、埴安彦を討たせた。この時忌瓮(いはいべ)を和珥の武gaiji027.gif坂(たけすきのさか)の上に鎮座(す)えた。(第1分-P288)
垂仁 11   <二十五年二月>阿倍臣の遠祖、武渟川別(タケヌナカハワケ)、和珥臣の遠祖、彦国葺(ヒコクニブク)、中臣連の遠祖、大鹿嶋(オホカシマ)、物部連の遠祖、十千根(トヲチネ)、大伴連の遠祖、武日(タケヒ)等、五人の大夫(まへつきみたち)に詔(みことのり)した。(第2分-P38)
山代の大國の淵(オホクニノフチ)の女、苅羽田刀辨(カリバタトベ)を妃として、五十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)を第二子とする。五十日帯日子王は、春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖である。(P106) <三十四年三月>山背の苅幡戸辺(カリハタトベ)を妃として、五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)を第二子とする。五十日足彦命は石田君の始祖である。(第2分-P48)
神功 14   <仲哀九年>(新羅国を討つため、軍を整え)和珥津(対馬上県郡鰐浦)を出発した。(第2分-P148)
丸邇臣(わにのおみ)の祖、難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)が神功皇后(ジングウコウゴウ)と大鞆和氣命(オホトモワケノミコト)の軍の将軍(いくさのきみ)となり、忍熊王(オシクマノミコ)を討った。(P136) <摂政元年>武内宿禰(タケシウチノスクネ)と和珥臣の祖、武振熊(タケフルクマ)に命じて忍熊王(オシクマノミコ)を討たせた。(第2分-P162)
応神 15 丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の女(むすめ)、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)を妃として、宇遲能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ)、女鳥王(メドリノミコ)を子とする。(P139) <二年三月>和珥(わに)臣の祖、日触使主(ひふれのおみ)の女(むすめ)宮主宅媛(ミヤヌシヤカヒメ)を妻として、菟道稚郎子皇子(ウヂノワキイラツコノミコ)、矢田皇女(ヤタノヒメミコ)、雌鳥皇女(メトリノヒメミコ)を子とする。(第2分-P192)
木幡村(こはたのむら)(京都府宇治郡)で、丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の女(むすめ)、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)に出会った。(P141)  
仁徳 16 丸邇池(わにのいけ)を作った。(P156) <十三年九月>和珥池(わにのいけ)を造った。(第2分-P244)
皇后、石之日賣(イハノヒメ)に歌を送ろうと、丸邇臣(わにのおみ)口子(クチコ)を遣わした。(P161) <三十年十月>的臣(イクハノオミ)の祖、口持臣(くちもちのおみ)(一に云はく、和珥臣の祖、口子臣)を遣わして皇后を喚した。(第2分-P252)
  <六十五年>和珥臣の祖、難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマ)を遣わして、飛騨国の宿儺(スクナ)を討った。(第2分-P274)
反正 18 丸邇(わに)の許碁登臣(コゴトノオミ)の女(むすめ)、都怒郎女(ツノノイラツメ)を妃として、甲斐郎女(カヒノイラツメ)、都夫良郎女(ツブラノイラツメ)を子とする。(P172-173) <元年八月>大宅臣の祖、木事(コゴト)の女(むすめ)、津野媛(ツノヒメ)を妻として、香火姫皇女(カヒノヒメミコ)、円皇女(ツブラノヒメミコ)を子とする。(第2分-P300)
雄略 21 丸邇(わに)の佐都紀臣(サツキノオミ)の女(むすめ)、袁杼比賣(オドヒメ)を婚(よば)ひに、春日(奈良県の東部)に幸行した。(P192) <元年三月>春日和珥臣(カスガノワニノオミ)深目(フカメ)の女(むすめ)、童女君(オミナギミ)を妻として、春日大娘皇女(カスガノオホイラツメノヒメミコ)を子とする。(第3分-P24)
この豐樂(とよのあかり)の日に、春日の袁杼比賣(オドヒメ)が、大御酒を獻った時、天皇は、水灌(みなそそ)く 臣(おみ)の孃子(をとめ) 秀gaiji070.gif(ほだり)取らすも 秀gaiji070.gif(ほだり)取り 堅く取らせ 下堅(したがた)く 彌堅(やがた)く取らせ 秀gaiji070.gif(ほだり)取らす子 (歌番号百三)と歌った。(P194)  
仁賢 24 大長谷若建天皇(オホハツセワカタケノスメラミコト)(雄略天皇)の子、春日大郎女(カスガノオホイラツメ)を妃として、高木郎女(タカギノイラツメ)、財郎女(タカラノイラツメ)、久須毘郎女(クスビノイラツメ)、手白髪郎女(タシラガノイラツメ)、小長谷若雀命(ヲハツセノワカサザキノミコト)(武烈天皇)、眞若王(マワカノミコ)を子とする。(P203) <元年二月>春日大娘皇女(カスガノオホイラツメノヒメミコ)を皇后として、高橋大娘皇女(タカハシノオホイラツメノヒメミコ)、朝嬬皇女(アサヅマノヒメミコ)、手白香皇女(タシラカノヒメミコ)、樟氷皇女(クスビノヒメミコ)、橘皇女(タチバナノヒメミコ)、小泊瀬稚鷦鷯天皇(ヲハツセノワカサザキノスメラミコト)(武烈天皇)、真稚皇女(マワカノヒメミコ)を子とする。(第3分-P134)
丸邇(わに)の日爪臣(ヒツマノオミ)の女(むすめ)、糖若子郎女(ヌカノワクゴノイラツメ)を妃として、春日の山田郎女(ヤマダノイラツメ)を子とする。(P203) <元年二月>和珥臣日爪(ワニノオミヒツメ)の女(むすめ)、糠君娘(アキラキミノイラツメ)を妃として、春日山田皇女(カスガノヤマダノヒメミコ)を子とする。(第3分-P134)
継体 26 安倍(あべ)の波延比賣(ハエヒメ)を妃として、若屋郎女(ワカヤノイラツメ)、都夫良郎女(ツブラノイラツメ)、阿豆王(アヅノミコ)の三柱を子とする。(P204) <元年三月>和珥臣河内(ワニノオミカフチ)の女(むすめ)、gaiji065.gif媛(ハエヒメ)を妃として、稚綾姫皇女(ワカヤヒメノミコ)、円娘皇女(ツブラノイラツメノミコ)、厚皇子(アツノミコ)を子とする。(第3分-P174)
欽明 29 春日の日爪臣(ヒツマノオミ)の女(むすめ)、糠子郎女(ヌカゴノイラツメ)を妃として、春日山田郎女(カスガノヤマダノイラツメ)、麻呂古王(マロコノミコ)、宗賀(そが)の倉王(クラノミコ)を子とする。(P206) <二年三月>春日日抓臣(カスガノヒツメノオミ)の女(むすめ)、糠子(アラコ)を妃として、春日山田皇女(カスガノヤマダノヒメミコ)、橘麻呂皇子(タチバナノマロノミコ)を子とする。(第3分-P244)
敏達 30 春日の中若子(ナカツワクゴ)の女(むすめ)、老女子郎女(オミナコノイラツメ)を妃として、難波王(ナニハノミコ)、桑田王(クワタノミコ)、春日王(カスガノミコ)、大俣王(オホマタノミコ)を子とする。(P207) <四年正月>春日臣仲君(カスガノオミナカツキミ)の女(むすめ)、老女子夫人(オミナゴノオホトジ)(別名、薬子娘(クスリコノイラツメ))を妃として、難波皇子(ナニハノミコ)、春日皇子(カスガノミコ)、桑田皇女(クハタノヒメミコ)、大派皇子(オホマタノミコ)を子とする。(第4分-P26)
推古 33   <二十一年十一月>和珥池(わにのいけ)を作った。(第4分-P126)
天武 40   <十三年十一月>大三輪君、大春日臣(*)、阿倍臣、巨勢臣、膳臣、紀臣、波多臣、物部臣、平群臣、雀部臣、中臣連、大宅臣(*)、粟田臣(*)、石川臣、桜井臣、采女臣、田中臣、小墾田臣、穂積臣、山背臣、鴨君、小野臣(*)、川辺臣、櫟井臣(*)、柿本臣(*)、(以下二十七氏略)が朝臣の姓を与えられた。(第5分-P202)
(*) 天武天皇から朝臣の姓を与えられた氏族(日本書紀記載)の内、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)を祖とすると「古事記/孝昭記」に記載された氏族。

では古い方から順に、ひとつひとつ考察していきます。なお、古事記の記事は「天皇名+記」、日本書紀の記事は「天皇名+紀+<年月>」で表すこととします。

神武紀<己未(五十九年)二月>
この記事をそのまま受け取ると、和珥坂下近辺には和珥氏族ではなく居勢祝が住んでいたことになり、地名と居住者が矛盾します。恐らく、和珥氏族がこの地に居住したのは、少なくとも居勢祝が征討された後でなければならないでしょう。でなければ、和珥氏族はその居住地を居勢祝に一旦奪われたことになります。それは考えにくいと思います。
孝昭記、孝昭紀<六十八年正月>
前述のとおりどちらも中途半端な記述です。本当に、和珥(わに)氏と春日氏、小野氏等が同祖なら何故そう書いていないのか、どうしても疑問が残る記述です。
孝霊記、孝霊紀<二年二月>
記紀で若干記述が異なりますが、春日には天皇の妃を輩出した氏族が居たことが推察されます。ただし丸邇(和珥)氏との関係は不明です。おそらくは別の氏族ではないかと推察します。
開化記、開化紀<元年十月>、開化紀<六年正月>
開化天皇が春日に宮殿を移しています。天皇の子、日子坐王(彦坐王)を生んだ妃が丸邇(和珥)氏の女性であったことが記紀に共通していますが、名前が異なり伝承があいまいであったことがうかがえます。
崇神記、崇神紀<十年九月>
日子國夫玖命(彦国葺)が丸邇(和珥)氏の祖であること、丸邇坂(和珥の武gaiji027.gif坂)に忌瓮(いはいべ)を置いて出陣したことが記載されています。これより丸邇(和珥)氏の祖、日子國夫玖命(彦国葺)が現在の和爾町近辺に居住していたことが推察できます。ちなみに、以下が現在の和爾町近辺の地図です。
和爾・光台寺池周辺地図
垂仁紀<二十五年二月>
ここでも紀は、彦国葺を和珥臣の遠祖としています。さらに彦国葺を大夫(おほまえつきみ)としているので、有力氏族であったことが推察されます。
垂仁記、垂仁紀<三十四年三月>
垂仁天皇の子、五十日帯日子王(五十日足彦命)を春日の山君、春日部の君の祖とする記に対して、紀は石田君の祖としていて、伝承が曖昧であったことがうかがえます。
神功紀<仲哀九年>
記には記載がありませんが、和珥津(対馬上県郡鰐浦)より新羅に出兵したとあり、日本海に和珥氏の拠点があったことを裏付けています。大和(奈良)の和珥氏との関係は不明ですが、和珥氏のルーツを考える上で重要な記述です。
神功記、神功紀<摂政元年>
難波根子建振熊命(武振熊)が丸邇(和珥)氏の祖であることが、記紀で一致しています。
応神記、応神紀<二年三月>
比布禮能意富美(日触使主)に関して記紀で微妙な違いがあります。記では丸邇氏族として記述していますが、紀では和珥臣の祖としており必ずしも氏族として位置付けていないように理解されます。また、記ではその娘、宮主矢河枝比賣(宮主宅媛)が京都府宇治郡に居住していたように記述されていて、比布禮能意富美(日触使主)がそこで応神天皇を饗応したことから、比布禮能意富美(日触使主)は京都府宇治郡に居住していたことが推察されます。つまり、丸邇(和珥)氏は奈良の和爾町近辺と宇治近辺にも居たことが推察されます。この件についてはちょっと空想的ですがすでに私の見解を述べています。
仁徳記、仁徳紀<十三年九月>
丸邇(和珥)池を造ったという記述は記紀で一致しています。丸邇(和珥)池は推古紀<二十一年十一月>にも記述されていて、こちらは現在の和爾町の北西にある光台寺池とされています(前記地図参照)。仁徳紀<十三年九月>の和珥池と同一かどうかは不明ですが、仮に推古天皇の時に改修または拡大されたものとすれば、この辺りまで丸邇(和珥)氏の影響力があったことがうかがえます。
仁徳記、仁徳紀<三十年十月>
皇后のもとに遣わされた口子(口持臣)について、記は丸邇臣としていますが、紀では和珥臣の祖としていて、ここでも記紀に微妙な違いがあります。
仁徳紀<六十五年>
神功紀<摂政元年>に記述された難波根子建振熊命(武振熊)がここでも登城します。紀年では、神功紀<摂政元年>は201年、仁徳<六十五年>は377年ですから、同一人物ではなく同名の別人であるか、明らかな間違いであるかのどちらかですが、どうも間違いっぽく思います。編纂者のチェック漏れではないでしょうか。でなければ、割注などの注釈があってもよさそうです。
反正記、反正紀<元年八月>
妃となった都怒郎女(津野媛)の父、許碁登臣(木事)に関して記では丸邇氏族としていますが、紀は大宅臣の祖としています。
雄略記、雄略紀<元年三月>
春日に住む丸邇(和珥)氏族の娘を妃にした点では記紀は一致していますが、父娘とも記紀で名前が違い、伝承の曖昧さがうかがえます。しかし、雄略天皇の代で丸邇(和珥)氏は春日に居住していたと言えそうです。紀では初めて「和珥臣の祖」ではなく「和珥臣」という氏族名が用いられています。また、紀では天皇の子、春日大娘皇女の母を春日和珥臣深目の女、童女君としていますが、記には春日大郎女の母が誰であったかが記述されていません。
仁賢記、仁賢紀<元年二月>
丸邇の日爪臣(和珥臣日爪)の娘を妃として、春日の山田郎女(春日山田皇女)を子とするという部分は記紀で一致しています。ただしその妃の名前は記紀で違っています。子の名前から、妃は春日の丸邇(和珥)氏であることが推察されます。
継体記、継体紀<元年三月>
記では継体天皇の妃となった波延比賣(gaiji065.gif媛)を安倍氏の出としていますが、紀では父を和珥臣河内の娘としていて、伝承が曖昧であったことがうかがえます。紀に書かれた 和珥臣河内が春日の和珥氏であったかどうかは疑問が残ります。
欽明記、欽明紀<二年三月>
春日の日爪臣(春日日抓臣)の娘、糠子郎女(糠子)を妃としたことが記紀で一致しています。ただ、子の名前や、妃の父の名前が仁賢記(仁賢紀<元年二月>)と重複しているので、春日の日爪臣(春日日抓臣)は二人の娘を二人の天皇の妃として差出し、しかもその妃が同名の子を生んだのが事実であったのか、あるいは春日の日爪臣(春日日抓臣)は仁賢記(仁賢紀<元年二月>)とは別人であったのか、あるいは伝承が曖昧だったのか、すこし疑問が残ります。また、名前から丸邇(和珥)の名前が消えている点は注目されるところで、おそらく丸邇(和珥)と呼称される氏族はこの時代には消えていたことが推察されます。
敏達記、敏達紀<四年正月>
春日の中若子(春日臣仲君)の娘、老女子郎女(老女子夫人)を妃としたことが記紀で一致しています。
推古紀<二十一年十一月>
和珥池を作ったと書かれていますが、おそらく仁徳天皇の時に作られた和珥池を拡大・改修したのではないかと考えます。
孝昭記、天武紀<十三年十一月>
天武天皇より朝臣の姓を与えられた五十二氏の内、大春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、櫟井臣、柿本臣の祖は、孝昭記に孝昭天皇の長子、天押帯日子命(天足彦国押人命)であるとされています。

以上長々と記紀の記事を個別に比較考察しました。で、これらから何が言えるのか。うーん、なかなか難しいですね。まあ、大胆に結論するとして、

崇神天皇の頃には、丸邇(和珥)氏の祖が現在の和爾町近辺に居住していた。
神功皇后の頃には、日本海側には沿岸航海を支える丸邇(和珥)氏の拠点があった。これは大和(奈良)の丸邇(和珥)氏とは別系統で、昔から日本海側には沿岸航海に長けた丸邇(和珥)族が存在したことが推察される。
仁徳〜反正天皇の頃まで、丸邇(和珥)氏またはその祖とされる氏族が現在の和爾町・池田町の近辺に居住していたと推察される。
雄略天皇の頃には、丸邇(和珥)氏は春日に居住していた。
欽明天皇の頃には、丸邇(和珥)氏の名前が消え、居住地の春日が氏族名になった。

結局、丸邇(和珥)氏と春日氏を結びつける記事は、孝昭記、孝昭紀<六十八年正月>以外には雄略記、雄略紀<元年三月>だけでした。崇神天皇の頃に和爾町近辺に居た丸邇(和珥)氏が雄略天皇の頃に春日に移り、欽明天皇の頃に春日氏に名前が変わったということになります。

また、神功皇后・応神天皇の頃には宇治にも別の丸邇(和珥)系氏族が居り、日本海(対馬)にも別の丸邇(和珥)系氏族が居たと推察されます。加えて、神武天皇の母方の和邇族、琵琶湖西岸に居た和邇族などなど、大和(奈良)の丸邇(和珥)−春日氏とは系譜の異なる和邇族が居たわけで、「そのルーツは最古の隠岐に居た沿岸航海技術を持った和邇族であった。」という私の妄想的結論を書いて、まずは「和邇氏のルーツを考える」の筆を留め置くこととします。

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