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古代史を考える

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項目

kd02-01 古代出雲と大和の関係を考える
kd02-02 纒向遺跡の桃の実に思う

 

[古代出雲と大和の関係を考える]

作成:2010年10月30日
訂正:2010年12月15日

古代出雲と大和の関係を考えてみたい。引用する古資料は古事記が主である。古事記と日本書紀との内容の違いなどについては、もう少し勉強してからのこととして、まずは古事記を中心に考えることにした。

天孫族と出雲族

古事記では、天つ神と国つ神の二系統の神々がある。それ以外に、海や川、山、土、木などの自然や物を擬した神々など色々あるが、人間を模した神々はおおよそこの二系統である。これは何を意味しているか。国つ神は、元々その土地にいた神々であり、天つ神は天上(高天原[たかまがはら])にいた神々、即ち元々その土地に居なかった神々である。高天原出身の神々を便宜的に高天原系、元々その土地にいた国つ神達を国神系とする。

高天原系であるイザナキ(伊邪那岐命[いざなきのみこと])とイザナミ(伊邪那美命[いざなみのみこと])から生まれた二人の神は、即ち姉アマテラス(天照大御神[あまてらすおほみかみ])と弟スサノヲ(建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと])であるが、姉のアマテラスはその孫であるニニギ(天津日高日子番能邇邇藝命[あまつひこひこほのににぎのみこと])を九州に天降らせ、ニニギの曾孫であるイハレビコ(神倭伊波禮毘古命[かむやまといはれびこのみこと])が九州から大和へやってきて大和を制圧し、初代大和の王、神武(じんむ)天皇となる。そこで、アマテラス−ニニギ−イハレビコの系統を天孫族と称することにする。天孫族は高天原系の一部で、アマテラスを祖とし、九州に降り立った神々とその子孫である。

一方、弟スサノヲは元は高天原系ではあったが高天原から追放されてしまい出雲に降りる。この時点でスサノヲはもはや天つ神ではなくなったと言えるだろう。そして出雲の国つ神の娘クシナダヒメ(櫛名田比賣[くしなだひめ])との間にできた子の子孫にオホクニヌシ(大國主神[おほくにぬしのかみ])が生まれ、出雲の王となる。オホクニヌシはスサノヲを初代とすると七代目である。これらの神々の系統を出雲族と称することにする。出雲族は国神系の一部で、出雲建国につながる神々とその子孫である。

天孫降臨と出雲

アマテラスは、ニニギを九州に天降らせるに先立ち、タケミカヅチ(建御雷之男神[たけみかづちをのかみ])とアメノトリフネ(天鳥船神[あめのとりふねのかみ])を出雲に派遣し、出雲の王であるオホクニヌシに天孫族への服従を約束させる。ニニギが九州に天下るのは、出雲族が天孫族への服従を認めた後である。ただし、ここで天孫族が出雲族を征服したと解するのは少し無理があるように私は思う。天孫族が後から九州に来ることを先に居た出雲族が承認したということではないだろうか。出雲の国が大和王権に服従し、支配されるのはもっと後の時代である。

天孫族は、元々出雲にも、九州にも、もちろん大和にも居なかったということ。天孫族が九州に来るためには、出雲族の承認が必要であったこと。では、天孫族はどこからやって来たのか。そして、何故出雲族の承認が必要であったのか。

結論的に言ってしまえば、天孫族の故郷は日本ではなく朝鮮半島と考えるのが一番妥当な気がするのであるが、それはまた別に詳しく考えることとする。そして出雲族の承認なしには九州に来れなかったということは、出雲族は九州の少なくとも一部(多分九州北部)を支配下に置いていた、あるいは強い影響力を持っていたと考えられるのである。

ニギハヤヒとオホモノヌシ

出雲族の承認を得て、天孫族のニニギが九州にやって来た。九州のどこであったかは別にして(出雲族の支配地より南部、九州南部かもしれない)。ニニギの曾孫イハレビコの時になって、何かの理由で東征することを決意する。日向[ひむか]より立って大和を目指す。しかしこの時、大和には既にニギハヤヒ(邇藝速日命[にぎはやひのみこと])が居たのである。ニギハヤヒに仕えたナガスネビコ(那賀須泥毘古[ながすねびこ])が最後までイハレビコに抵抗するが、討たれてしまう。そしてニギハヤヒはいともあっさりとイハレビコに服従する。不思議なことにニギハヤヒはニニギとは別に天降った天つ神なのである。ニギハヤヒは何故簡単にイワレビコに服従したのだろうか。古事記はニギハヤヒが同じ高天原系の天孫族に服従するのは、当然なこととして描いている。

また、ニギハヤヒとナガスネビコの妹トミヤビメ(登美夜毘賣[とみやびめ])から生まれたウマシマヂ(宇摩志麻遅命[うましまぢのみこと])は、物部連、穂積臣、画像文字_うねめ臣[うねめのおみ]の祖とされている。有力軍事氏族、物部氏がニギハヤヒとナガスネビコの妹の血を引く子孫というのも、また新たな興味を覚える。これらは今後の課題として残しておく。

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[2010.11.10 訂正・補足] [2010.12.15 再訂正]

「ナガスネビコがニギハヤヒに仕えていた」というのは、日本書紀に書かれていることで、古事記には書かれていない。筆者の思い違いであった。
古事記では、「ニギハヤヒが『天つ神の御子が天降ったと聞いたので、追って参降[まいくだ]り来ました。』とイハレビコに言って、天津瑞[あまつしるし]を獻[たてまつ]って、仕えた。」とある。さらに<校注>には「神武天皇の東征を天つ神の御子の天降りと観じたのである。」とあり、ニギハヤヒはイハレビコが大和を制圧した後に天降って来たことになる。そして、イハレビコに仕えた後にナガスネビコの妹を妻とする。
しかし日本書紀では、ニギハヤヒはイハレビコが大和を制圧する以前に天降っており、すでにナガスネビコの妹を妻としており、ナガスネビコはニギハヤヒに仕えていたと記述されており、古事記と日本書紀のニギハヤヒに関する記述は一致してない。
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さらに古事記には、得体のしれない神が登場する。オホモノヌシ(大物主神[おほものぬしのかみ])である。オホモノヌシが三島溝咋[みしまのみぞくひ]の娘セヤダタラヒメ(勢夜陀多良比賣[せやだたらひめ])に生ませたイスケヨリヒメ(比賣多多良伊須氣余理比賣[ひめたたらいすけよりひめ])が、イハレビコ(神武天皇)の皇后となるのである。

ニニギとは別に天降った天つ神、ニギハヤヒ(イハレビコより先に大和に居たのか、イハレビコが大和を制圧した後に来たのかは問題として残るが)とは何者だったのか。そして神武天皇の皇后の親であったオホモノヌシとはいったい何者なのか。ニギハヤヒとオホモノヌシ、この二神こそ出雲と大和の関係を解き明かす鍵を握っているように思う。

ニギハヤヒは何者か

古事記の中でニギハヤヒが出てくるのは、前記イハレビコへの服従のくだりだけであり、それ以上の事がわからない。Wikipedia で調べると、ニギハヤヒに関する三つの古資料がある。

1. 先代旧事本紀
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊[あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと]といいアメノオシホミミ(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命[まさかあかつかちはやひおしほみみのみこと])の子でニニギの兄であるアメノホアカリ(天火明命[あめのほあかりのみこと]と同一の神であるとしている。

2. 新撰姓氏録
ニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、アメノホアカリは天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。

3. 播磨国風土記
大汝命(大国主命)の子とする。

上記以外に、原田常治氏の説が紹介されている。私としてはその詳細を検討するに至っていないが、「ニギハヤヒはスサノヲの子であり、大物主[おおものぬし]、加茂別雷大神[かもわけいかづちのおおかみ]、事解之男尊[ことわけのをのみこと]、日本大国魂大神[やまとおほくにみたまのおほかみ]、布留御魂[ふるみたま]、大歳尊[おほとしのみこと]と同一」とする説である。

そうすると、ニギハヤヒの正体はアメノホアカリ(ニニギの兄、天孫族からはずれる天つ神)か、オホクニヌシの子か、スサノヲの子でオホモノヌシと同一神という可能性があるということなのだが、それ以上にはなんとも言いがたい。

オホモノヌシは何者か

では、オホモノヌシの方はどうだろうか。これも Wikipedia で調べると、「大物主(大物主大神)は、日本神話に登場する神。大神[おおみわ]神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命[やまとおほものぬしくしみかだまのみこと]。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉[おおものぬしくしみかだま]という。大穴持(大国主神)の和魂[にきみたま]であるとする。別名 三輪明神。」とある。オホクニヌシの魂というのであるから、オホクニヌシと同一神という意味になる。

そして「大神神社」を Wikipedia で調べると、「大物主大神(倭大物主櫛甕玉命)を主祭神とし大己貴神[おおなむぢのかみ]、少彦名神[すくなびこなのかみ]を配祀する。 日本神話には、当社にまつわる次のようなくだりがある。
大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が『この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ』と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。」とある。

古事記では、上記 Wikipedia の「大神神社」の記述とほぼ同じく、オホクニヌシがスクナビコナ(少名毘古那神[すくなびこなのかみ])と兄弟となって出雲を作り堅めるが、スクナビコナが常世國に往ってしまったため(常世國とはどこか、何故急にスクナビコナは出雲を去ったのか、これも今後の課題である)「自分一人ではこの国を治めることはできない。どの神と一緒になってこの国を治めようか」と悩んでしまう。この時海を照らして寄ってくる神があった。その神が「私を祭ったなら、私と共に国を作り成すことができるだろう。さもなければ国は出来上がらないだろう。」という。オホクニヌシが「どのようにあなたを治め奉ればいいのですか」と言うと、その神は「私を倭の青垣の東の山の上に拜(いつ) き奉れ」と答えた。この神は御諸山[みもろやま]の上に鎮座する神である、というのである。

古事記には「その神」の名前は書かれていない。しかしこの記述の直後に、「故、その大年神、。。。」とあって、オホトシ(大年神[おほとしのかみ])の神裔が記述されている。そしてオホクニヌシに関する記述はここで終わっているのである。この文脈からすると「その神」がオホトシであると読める。素直に読めば、御諸山の上に鎮座する神は、オホモノヌシであり、古事記ではオホトシであると解されるのである。

オホモノヌシは海を渡って出雲に来た後(どこから来たかはこれも今後の課題であるが)、大和に祭られた。大神神社は出雲国を建国した三人の神、オホモノヌシとオホクニヌシ(両者は同一神かもしれない)、そしてスクナビコナを祭る出雲族の神社なのである。何故、天孫族の地、大和の中心に出雲族の神を祭る神社があるのか、そういえば天孫族の祖、アマテラスを祭る神社がここではなく、遠い伊勢の地にあるのか。何か深いわけがあるにちがいない。これは重要な鍵である。

古事記には、オホモノヌシが大神神社に祭られた経緯がもう一つ書かれている。ミマキイリヒコ(御眞木入日子恵命[みまきいりひこいにゑのみこと])([崇神[すじん]天皇)の時、疫病が流行った。その時、崇神天皇の夢にオホモノヌシが現れ「オホタタネコ(意富多多泥古[おほたたねこ])をして自分を祭らせれば、神のたたりは起こらず国は安らかになるであろう」と告げる。そこで崇神天皇はオホタタネコを探し出して神主とし、大神神社にオホモノヌシを祭らせたのである。そして古事記は、オホタタネコをオホモノヌシの五世であるとしている一方で、「オホタタネコがオホモノヌシとイクタマヨリビメ(活玉依毘賣[いくたまよりびめ])より生まれた娘である」という三輪山伝説を記載している。

以前にも書いたことであるが、古事記に、オホクニヌシが出雲から倭国[やまとのくに]に上ろうとして装束を整え、片手を馬の鞍にかけ、片足を鐙[あぶみ]に踏み入れてスセリビメ(須勢理毘賣[すせりびめ])(オホクニヌシの正妻)に詠んだ歌というのが記述されている。オホクニヌシは大和へ何かの目的で行ったのである。それがオホモノヌシを祭り、大和の地を治めるためであったと考えたくなる。

ニギハヤヒとオホモノヌシが出雲族としたら

以上を総合して考えると、オホモノヌシは(どこから来たかは別にして)出雲族の神であり、オホクニヌシによって大和の地に祭られた。オホモノヌシを大和に祭るということは、出雲族が大和を治めることを意味していた。そして、オホクニヌシは出雲を治める自分に代わって誰かに大和を治めさせる必要があった。オホクニヌシに代わって大和を治めていたのがニギハヤヒではなかったのだろうか。

とすると、ニギハヤヒがイハレビコの大和制圧の後に天降った天つ神であるとする古事記の記述は矛盾している。私の推理をおし進めると、天孫族が大和を制圧したがそれは出雲族から大和を奪取したことになる。(日本書紀の記述によれば)それに対する正当性を主張するため、大和が出雲族の支配地ではなく、元々高天原系天つ神(ニギハヤヒ)の支配地であったとし、それを天孫族が奪ったのではなく、本来の正当な支配者である天孫族が支配するようになったとしたかったのではないだろうか。悪いのは、最後まで抵抗した在地のナガスネビコだったのであると。あるいは、ニギハヤヒの末裔であるとする物部氏が自分達を権威付けるため、祖神が国神系ではなく高天原系であると主張し、それが古事記や日本書紀に反映されたということもあり得る。

播磨国風土記がニギハヤヒをオホクニヌシの子としているのは、まさに私の推理を裏付けているような気がするのである。また、原田氏の説も神社伝承を根拠にニギハヤヒを出雲族としているようである。古事記は、風土記や神社伝承とは必ずしも一致していないのである。

俗っぽく言えば、出雲族は九州の一部という軒先を貸して、出雲族の分家である大和という母屋を天孫族に取られてしまった。その果てに出雲本家も天孫族の支配下に入らざるを得なくなった。出雲族には「恨み」が残り、天孫族には「後ろめたさ」が残った。そう考えると天孫族が大神神社のオホモノヌシを祟り神として恐れ祭り、オホモノヌシを憚って自分達の祖神アマテラスを遠い伊勢の地に祭らざるを得なかったということが、極自然なことに見えてくる。

古代出雲族はどこまで影響力があったのか

ところで蛇足かもしれないが、出雲国の成り立ちとその影響力が及んだ範囲について、出雲国風土記(日本古典文学大系-02-風土記/ 秋元吉郎 校注/ 岩波書店 )と古事記を基に考えてみたい。

出雲国風土記によれば、出雲という名称は八束水臣津野命[やつかみづおみづののみこと]が「八雲立[やくもたつ]」と言ったので、「八雲立つ出雲」と云う、とある。古事記にスサノヲの五世にオミヅヌノカミ(淤美豆奴神[おみづぬのかみ])があり、同一神かという校注者の注が記されている。そして、八束水臣津野命は国引きをするのである、以下国引きした地名

1. 栲衾(たくぶすま)志羅紀(しらき)(古代朝鮮東南部にあった国。新羅。)の三崎(みさき)
2. 北門(きたど)(隠岐)の佐伎(さき)
3. 北門(きたど)(隠岐)の波良(はら)
4. 高志(こし)の都都(つう)の三崎(みさき)(新潟県上越市直江津付近の岬)

つまり、新羅の一部、隠岐の一部、越後の一部ということになる。八束水臣津野命は国引きを終えて、意宇[おう]の杜[もり]に杖を立て「意恵[おゑ]」と感動の言葉を発っしたので、その地を意宇という、とある。
続いて、天[あめ]の下を造った大穴持命[おほなもちのみこと](オホクニヌシ)が越[こし](越は越前、越中、越後の総称)の八口[やくち]を平定して長江山(東方、伯耆[ほうき]との国境、永江山)に来た時、「私が造って治めている国は、天つ神の子孫に平和に治めてもらうために譲り渡そう。ただ、出雲の国は私が鎮座する国として、自分の霊力を示す玉を置いて守ろう。」と云った、とある。オホクニヌシが、苦労して造りあげた自分の国を何故そう簡単に天孫族に渡すことにしたのか、ここにも真の理由が書かれていないように思う。

一方古事記では、オホクニヌシが稲羽[いなば]のヤガミヒメ(八上比賣[やがみひめ])に求婚しに行く話や、伯伎[ほうき]の国での八十神[やそがみ]による迫害、高志国[こしのくに]のヌナカハヒメ(沼河比賣[ぬなかはひめ])への求婚、前述した倭国[やまとのくに]への旅立ちなどが記述されている。さらにオホクニヌシの子タケミナカタ(建御名方神[たけみなかたのかみ])がタケミカズチと争い、科野国[しなののくに]州羽[すは]の地で降参する。

以上から推定すれば、朝鮮半島の一部、島根以東、北は新潟までの日本海側、諏訪、大和あたりまで出雲族の力が及んでいたことになる。ただ、北九州に関する記述は見当たらないが。。。。

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[2010.11.10 補足]

天孫族以外で九州にやって来た高天原系の神を調べてみた。まずは、イザナキ(伊邪那岐命[いざなきのみこと])の子孫である。黄泉の国から逃げ帰ったイザナキは、筑紫の日向の橘の小門[おど]の阿波岐原[あはきはら](所在未詳)で禊祓い(みそぎはらい)する。このとき、イザナキの身に付けた物や持ち物から十二柱の神が生まれ、さらに身体を濯いだ時に十四柱の神が生まれる。

以下、持ち物から生まれた十二神
ツキタツフナドノカミ(衝立船戸神)、ミチノナガチハノカミ(道之長乳歯神)、トキハカシノカミ(時量師神)、ワヅラヒノウシノカミ(和豆良比能宇斯能神)、チマタノカミ(道俣神)、アキグヒノウシノカミ(飽咋之宇斯能神)、オキザカルノカミ(奥疎神)、オキツナギサビコノカミ(奥津那藝佐毘古神)、オキツカヒベラノカミ(奥津甲斐辨羅神)、ヘザカルノカミ( 邊疎神)、ヘツナギサビコノカミ(邊津那藝佐毘古神)、ヘツカヒベラノカミ(邊津甲斐辨羅神)

以下、身体を濯いで生まれた十四神
ヤソマガツヒノカミ(八十禍津日神)、オホマガツヒノカミ(大禍津日神)、カムナホビノカミ(神直毘神)、オホナホビノカミ(大直毘神)、イヅノメノカミ(伊豆能賣神)、ソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)、ソコツツノヲノカミ(底筒之男神)、ナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)、ナカツツノオノカミ(中筒之男神)、ウハツワタツミノカミ(上津綿津見神)、ウハツツノオノカミ(上筒之男神)、アマテラスオホミカミ(天照大御神)、ツクヨミノミコト(月讀命)、タケハヤスサノヲノミコト(建速須佐之男命)

ソコツワタツミ、ナカツワタツミ、ウハツワタツミの三神は安曇連[あづみのむらじ]等の祖とされている。Wikipedia によれば、安曇氏は「古代日本を代表する海神族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)」とあり、また「安曇野[あづみの]は、長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、梓川・犀川の西岸(押野崎以南)から高瀬川流域の最南部にかけて広がる扇状地全体を総括している。語源は古代にこの地に移住してきた海人族安曇氏に由来する。」とある。蛇足だが、ソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウハツツノヲは住吉の三神とされている。

さらに、スサノヲの子である、タキリビメノミコト(多紀理毘賣命)、イチキシマヒメノミコト(市寸島比賣命)、タキツヒメノミコト(多岐都比賣命)の三女神は、宗像神社(福岡県宗像郡沖の島、同郡大島、同郡玄海町田島)の三神とされている。

イザナキは、アマテラスに高天の原を、ツクヨミに夜の国を、スサノヲに海を支配するよう命じたが、その他の神はその地(すなわち九州北部や大阪の海浜部)に根付いたと考えるのが自然であろう。特に、スサノヲの子である三女神は宗像三神となったわけであるから、九州北部に天孫族とは異なる有力種族が住み着いていたと考えるのが妥当と思う。それが出雲族と同じイザナキ・スサノヲの系統であることは、出雲族と九州北部が深い関係にあったと考えても無理な話ではない。

さらに推測をおし進めると、海人族安曇氏が九州北部から松本盆地に移住した話とオホクニヌシの子でタケミカヅチと争って諏訪の地に追いやられたタケミナカタの話が私には同じに見えてくる。タケミナカタは実はタケムナカタ(建宗像)ではなかったのか。タケミナカタは北部九州を護る武力の神で、最後までタケミカヅチと争うが敗れて諏訪の地に逃げる。そうしてオホクニヌシは仕方なくニニギが九州にくることに同意せざるを得なかったとしたら。。。。 安曇氏の移住地である松本盆地とタケミナカタが逃げ延びた諏訪盆地は目と鼻の先くらいに近いではないか。。。。 うーん、まあこれは今後更に追求したい課題である。
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最後に

古事記本文が書かれたのが712年(またはそれ以前)、日本書紀が完成したのが720年、出雲国風土記ができたのはその後である。出雲国風土記は733年に完成し聖武[しょうむ]天皇に奏上されたといわれている(異説があるらしいが)。すでに大和の朝廷は絶大な権力を持っていた。古代大和の王権が出来る前にすでに出雲族は大和を含む広域にわたり支配力あるいは大きな影響力を持っていたなどとは、出雲国風土記はとても主張できなかったであろう。大和の朝廷が許すであろう範囲内で自らの名誉ある歴史を述べるのが精一杯であったと考える。

以上、とりとめもなく古代出雲と大和の関係を考えて見た。最後に残る自身への課題は、果たしてこの古代出雲と大和の関係がいつ頃のことだったのかということである。全てが神話の世界に閉じ込められてはいるが、神話は決してありもしない架空のできごとを記述しているのではない。必ずその中に自分達のルーツと遠い過去の記憶を描いているはずである、と思うのである。まあちょっと出雲族に肩入れしているかもしれないが。。。。

更に蛇足であるが、オホクニヌシの前から忽然と去っていったスクナビコナとそれに代わる様に忽然と現れたオホモノヌシであるが、彼等が何処へ去り、何処から来たのか、大変興味の湧くところである。備忘として記しておく。

戻る

[纒向遺跡の桃の実に思う]

作成:2011年02月20日

古事記のデータベース化作業もようやく景行天皇(けいこうてんのう)、倭建命(やまとたけるのみこと)まで進んできた。この後、成務天皇(せいむてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)と続くわけであるが、どうも景行天皇から応神天皇に到る辺りで、日本の統一、大和王権の成立があったような気がしている。詳細な事は今後の勉強と考察の課題であるが、古事記には応神天皇の代に百済の照古王(しょうこおう)が朝貢したとあり、この百済の照古王(しょうこおう)は、三国史記にある百済の第13代の王、近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)ではないかとされている(別説もあるようだが)。これは、古事記の中で年代が特定できる数少ない重要な事跡ではないかと関心を持っているところである。以上は余談であるが、最近気になったことを一つ書くことにしたい。

大分タイミングがずれてしまったのだが、2011年01月23日に放送された、NHKスペシャル「邪馬台国を掘る 卑弥呼はどこにいた」を見た感想を書いてみる。この放送、なんとまあ独善的なタイトルと内容であったことか、これが公正な報道をすべきNHKの番組かと疑った。纒向遺跡を掘ることが何故「邪馬台国を掘る」なのか。初めから、纒向=邪馬台国=卑弥呼の宮殿と決めてかかったような取材・編集態度に唖然とした。その要旨は「2000個以上見つかった桃の種は、卑弥呼が鬼道に使ったもので、中国の道教の影響を受けたものである。」「見つかった銅鐸の破片は熱した銅鐸を叩いて破壊したもので、卑弥呼が意図的に破壊したものである。」など。それを裏付けるために、中国の道教研究者を登場させたり、銅鐸の破壊実験をやる研究者を登場させたりと、あまりにも短絡的、見世物的な内容であった。調べて見ると、この放送内容は2010年09月17日付け asahi.com(朝日新聞社):纒向遺跡から祭祀用?桃の種2千超 邪馬台国有力候補地 - 文化 の記事そのままではないか。NHKは4ヶ月かけてこの朝日新聞の記事を無批判に追っかけてこの番組を作ったとしか思えない。この放送内容に、私と同じように感じた方も多かったのではないだろうか。帆人の古代史メモ:纏向遺跡 は、私の感想に近いので紹介しておく。

ところで、大量の桃の種が見つかったと聞いてすぐに思い出したのは、古事記にある「イザナキノミコトが黄泉の国のイザナミノミコトに会いに行って、その醜い姿を見てしまったために、イザナミノミコトが八柱の雷神と黄泉軍(よもついくさ)を使ってイザナキノミコトを追いかけた時、イザナキノミコトが黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本で桃子(もものみ)三個を投げつけて、八柱の雷神と黄泉軍を振り払った。」というくだりである。古代史資料として古事記や日本書紀を少し勉強していれば、すぐに思い当たることである。また、古事記には「黄泉比良坂は、出雲國の伊賦夜(いふや)坂という。」とあり、私はこの桃の種は、出雲と関係が深いのではと思わず女房につぶやいてしまった程である。 桃太郎民話や桃の呪力について考察している方がこの放送を見て、纏向遺跡の桃の種:保立道久の研究雑記 をブログに掲載しているが、これが素直な見方ではないだろうか。桃を介して道教と卑弥呼と纒向を強引に結びつけるなど、乱暴この上ない話だと思う。

まあ、桃の実と中国の道教を結びつけるのも一つの想像として否定はしないが、もっと身近にある貴重な資料、古事記や日本書紀の記述について言及していないのは、まったくお粗末な取材としか言えない。NHKに猛省を促したい。ましてや、銅鐸を自ら作って、焼いて破壊する実験までやって、それで「卑弥呼が銅鐸を破壊してそこに埋めたのではないか。」などというのは、勝手に想像するのは良いとしても、それをまじめに取材して放送するとはNHKの古代史に対する良識を疑ってしまった。ほんの少しだけ、吉野ヶ里遺跡の状況を紹介していたけれども、どう見ても邪馬台国北九州説と邪馬台国大和説を公平に扱っていますというゼスチャーにしか見えなかった。

古代史をセンセーショナルな見世物にしてはならないと思う。そんなことをしていたら必ず歪んだ結果をもたらし、真実はますます遠くなるのではないか。思わず、大阪地検のあの事件を思い出してしまった。自分達の都合の良いシナリオの通り、状況証拠ばかりを積み重ね、あげくの果てに隠滅したり、偽装したりしてしまうようなことがあってはならない。古代史研究に取り組む先生方、それを紹介するマスコミの皆さんには、どうか真摯で公正な研究と報道をお願いしたいものである。

ところで、古事記には、景行天皇が纒向の日代宮(ひしろのみや)に坐して天の下治(し)らしめしたとある。纒向に大規模な宮殿(or 祭殿)跡があったとしたら、まず考えるべきは景行天皇あるいはそれに近い王の宮殿(or 祭殿)跡ではないかと疑うのが筋のように思うのだが、最近の研究者は物証を偏重するあまり古事記や、日本書紀の古資料を無視し過ぎている。物証だけでは、卑弥呼も邪馬台国も歴代天皇の名も何もないことをどうして忘れているのだろうか。全部が真実でないとしても、魏志倭人伝があり古事記や日本書紀があるから、我々を古代史の世界に道案内してくれているのではないか。それを忘れて、勝手な妄想に基づいて証拠探しに奔走するのは、本当に嘆かわしいことだと思う。

話が最初の余談にもどるが、応神天皇の代に百済の近肖古王が朝貢したとすると、応神天皇は大雑把に4世紀中頃の天皇となる。それを基準に神功皇后、仲哀天皇、成務天皇と遡り、さらにその前が景行天皇であるから、景行天皇が3世紀の天皇としての可能性が出てくる。纏向遺跡が3世紀初頭から3世紀後半の遺跡だとすると、古事記の記載はまんざらでもなくなってくるのである。ちなみに、日本書紀の神功摂政在位69年、仲哀天皇在位9年、成務天皇在位60年という在位年数をそのまま信用するということではないが、仮にその年数を採用してみると 350−(69+9+60)=212±α だから、景行天皇の纒向の日代宮は3世紀初頭の天皇の居場所であったということになる。いずれにしても、この景行天皇から応神天皇に到る時代、大和、九州熊曾、出雲、東方十二道、尾張、敦賀、和歌山、北九州、朝鮮半島、と倭建命(景行天皇の子)、仲哀天皇(倭建命の子)、神功皇后(仲哀天皇の后、応神天皇の母)、それに建内宿禰(たけうちのすくね)等が駆け回っていて、朝鮮半島との関係も含めて日本中に大きな変化が起きた激動の時代ではなかったかと思えるのである。

とまあ、書けるのはここまでで、また勉強が進んだらもう少し突っ込んでこの時代の真相を考えてみたいと思っているこの頃である。

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