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古代史を考える

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項目

kd01-01 はじめに
kd01-02 馬について
kd01-03 古事記と日本書紀の成立過程について

 

[はじめに]

作成:2009年07月20日

もう随分前のことですが、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を読んで大変衝撃を受けたものです。漠然とですが、卑弥呼の邪馬台国は大和にあったものと思っていましたが、邪馬台国は邪馬壱国の誤りで、北九州にあったことを文献資料から徹底的に分析した氏の研究態度に感銘を受けたことを覚えています。しかし、その後この本は整理のためダンボール箱に入れられ物置にしまったままとなりました。

また一時期、日本文化のルーツに興味をもち、柳田国男や和辻哲郎、柳宗悦、世阿弥(風姿花伝)、岡倉覚三(茶の本)、新渡戸稲造(武士道)などを好んで読みましたが、「古事記」もそのうちの一冊で、日本古代の神話物語として読んだというだけでした。

会社の仕事から完全リタイアーしたこの4月から、何かテーマを決めて勉強してみようと考え、家の近くにある市立図書館通いをはじめました。一通り蔵書を見渡して、心に引っかかったのは、古代史でした。そうだこれをテーマにしようと思い立った次第です。70〜80歳位までは生きていれば勉強は継続できます。自分なりの古代史の謎解きに挑戦してみようと決心しました。

とりあえずは先入観を全部捨てた上で、素直に、しかし慎重に(上っ面の理解ではなく、何故そうなのかという疑問を持ち、考える態度で) 本や資料を読むことにしました。現時点までに読んだ本は下記リストで大したものではありませんが、そこから得た私の疑問・問題認識をすこし整理しました。勉強すればするほど疑問が多くなり、解明のほんの入り口に立ったばかりの初心者の古代史考究のスタートです。

・古事記/ 倉野憲司/ 岩波文庫
・日本書紀(1)-(2)/ 坂本太郎他 校注/ 岩波文庫
・魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝/ 石原道博 編訳/ 岩波文庫
・魏志倭人伝を読む(上、下)/ 佐伯有清/ 吉川弘文館
・日本書紀の真実-紀年論を解く/ 倉西裕子/ 講談社選書メチエ
・「記紀」はいかにして成立したか/ 倉西裕子/ 講談社選書メチエ
・日本の歴史-02-王権誕生/ 寺沢薫 / 講談社
・出雲風土記の謎-秘められた人麿の怨念/ 朴炳植(パク・ビョング・シク)/ 毎日新聞社
・出雲族の声なき絶糾-記紀の陰謀と出雲風土記の抵抗/ 朴炳植(パク・ビョング・シク)/ 新泉社
・日本古典文学大系-02-風土記/ 秋元吉郎 校注/ 岩波書店
・「邪馬台国畿内説」を撃破する/ 安本美典/ 宝島社新書

以下に、私の疑問・問題認識を記します。その答えへのアプローチは情報の整理を含めて逐次書き加えていこうと思います。

■ 邪馬壱(台)国はどこにあったか
魏志倭人伝を素直に読むとやはり北九州にあったとするのが妥当と考える。その最大の根拠は、帯方(韓国ソウル付近)からの距離が一万二千余里。帯方から狗邪韓国までが七千余里、狗邪韓国から末盧国(まつろこく)(唐津付近)までが三千余里。残りは二千余里で、対馬と壱岐の距離が千里(約80Km)とあるので、邪馬壱(台)国は唐津付近から160Kmの範囲内となり、九州の域をでることはない。
■ 古事記は、どのように成立したか
古事記成立以前に緒家に伝わる「帝記」と「本辞」という史書(文書)があったとすれば、何故、天武天皇は稗田阿禮にその選録の結果を暗記させる必要があったのか。選録の結果を文書にすることができなかった理由は何か?
■ 古事記と日本書紀という似て非なる二つの史書を作った理由は何か
古事記と日本書紀の内容は似ているようで微妙に違っていたり、全く異なる場合もある。そもそも、大和の王権は何故二つの史書を必要としたのか?
■ 神武天皇の東征物語は単なる作り話ではない
日本書紀によれば、出発地は日向、途中、速吸乃門(はやすひなと)(豊予海峡(速吸瀬戸(はやすいせと))、筑紫国莵狭(うさ)(大分県宇佐)、筑紫国岡水門(おかのみなと)(遠賀川河口)、安芸国(広島)、吉備国(岡山)、浪速国から旧大和川を上って河内国白肩之津(旧平岡市/現東大阪市)に至る。
生駒越で大和に入ろうとするが、大和の長髄彦(ながすねひこ)が、孔舎衛坂(くさかゑのさか)(旧平岡市日下町)で応戦し、神武軍は敗退する。神武軍は茅淳(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)(泉南郡樽井/泉南市樽井)を経て紀国名草邑(なくさのむら)(和歌山市西南名草山)、さらに熊野の神邑(みわのむら)(新宮市佐野)に至り、天磐盾(あまのいわたて)(神倉神社/神倉山)に昇った後、熊野荒坂津(あらさかのつ)(旧紀勢町錦/現大紀町錦、又は熊野市二木島)から山越えで菟田(奈良県宇陀)に至るとある。
大和の王権が、九州王権が何らかの理由で東遷した王権でないならば、わざわざこんな物語を書く必要はないはずである。東征物語りを書かざるを得ない伝承あるいは記録があったからに他ならないと思う。では、何故九州王権が遠く離れた東の大和に移る必要があったのか、新たな疑問が生まれる。さらに、この事件はいつごろのことなのか、卑弥呼の時代より先なのか、後なのかも重要な問題である。
■ 古事記、日本書紀とも、神代の出雲国を特別に詳しく記述しているのは何故か
古事記によると、出雲国の始祖はスサノオ(アマテラスの弟、父イザナキと八百万の神に高天の原から追放され出雲に行く)で、アマテラスに出雲を国譲りしたオホクニヌシはスサノオの7代目子孫、筑紫の日向の高千穂に天孫降臨したアマツヒコヒコホノニニギはアマテラスの孫で、神武天皇はさらにその曾孫。この物語りは、出雲国が神武天皇即位より以前から存在した王国であったことを物語っている。大和の王権成立以前から出雲は独立した王国であったといえる。出雲国風土記には、独自の国引き神話が記述されており、スサノオの名前は出てこない。国引き(建国)した神はヤツカミズオミズノノミコトで、古事記にあるスサノオの4代目、オミズヌノカミと名前が似ているが同じ神かどうかは不明。出雲国王権と大和王権のルーツとその関係は、どうだったのだろうか?。さらに神武東征後の九州に別の王権があったとすると、出雲王権と九州王権はいつごろどのように大和王権に敵対し、協調し、従属することになったのか。
■ 日本書紀・神功紀の実年代を考える
日本書紀の神功皇后在位年代は201〜269年であるが、記述内容の年代を中国、朝鮮史料と比較すると、ピタリ一致する記事と120年後に相当する記事などが混在している。神功紀は201年から69年+120年分を69年間に圧縮して記述されていることになるが、何故そんな小細工が必要だったのか。まさに、この時代(3世紀初頭から4世紀後半)こそ卑弥呼の邪馬壱(台)国の所在とともに空白の謎の時代といえる。

[参考]

□ 年代が一致する記事の例
(1) 神功摂政39年(239年)条の分注に魏志倭人伝を引用し、難斗米を魏に派遣して朝貢したとあり、神功皇后が難升米を魏に派遣して朝貢した卑弥呼であったように記述。
(2) 神功摂政66年(266年)条の分注に普書起居注を引用し、倭の女王が通訳を介して普に貢献したとある。

□ 年代が120年後の記事の例
(1) 神功摂政55年(255年)条に百済の肖古王(セウコワウ)ミマカりぬとあるが、朝鮮の三国史記では、これは375年である。
(2) 神功摂政65年(265年)条に百済の枕流王(トムルワウ)ミマカりぬとあるが、朝鮮の三国史記では、これは385年である。

□ さらなる疑問
仲哀天皇(神功皇后の夫)9年(200年)、天皇が亡くなった後、神功皇后は九州から朝鮮半島に自ら出征し新羅を討つ。この事件が広開土王碑銘に書かれた倭国による新羅平定であるならば、391年のことになる。

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[馬について]

作成:2009年10月16日

魏志倭人伝は邪馬壱(台)国がどこにあったかを推定する上で貴重な資料ですが(最近は考古学の知見の方を重視する傾向もあるようです)、ともすると経路や距離、旅程・日数などに注意がいってしまいがちです。しかしそれ以外にも倭(国)(わこく)の風俗や栽培植物、動物、武器、食物、鉱物、樹木、生活習慣など非常に多岐にわたる記事が書かれています。誰かの本に書かれていたのを無意識に覚えていたのですが、倭(国)には「牛、馬、虎、豹、羊、鵲(じゃく)(かささぎ)なし」と明確に書かれていて、当時(3世紀前半)倭(国)には馬はいなかったということになります。

古事記をデータベース化していて最近気づいたのですが、出雲を建国した大国主には嫉妬深い須勢理毘賣(スセリビメ)という正妻がいました。大国主が出雲から倭国(やまとのくに)に上ろうとして装束を整え、片手を馬の鞍にかけ、片足を鐙(あぶみ)に踏み入れて須勢理毘賣に詠んだ歌というのが記述されています。

お気づきと思いますが、ここでいくつかの疑問が生じました。一つ目は「馬」です。3世紀前半、倭(国)(わこく)には馬はいなかった。しかし、出雲建国の時代、出雲には「馬」はいたのです。「馬」が大陸(あるいは朝鮮半島)から持ち込まれたとすると、出雲の建国は3世紀前半よりも後になります。魏志倭人伝がいう「倭(国)」が九州を中心にした限定された地域であり、出雲とは全く絶縁されていたとすると、「馬」の存在有無から時代の前後関係を推論することはできないですが、九州と山陰がそれほど相互に閉鎖されていたとは考えにくいのではないかと思います。

二つ目は「倭」をどう読むかです。魏志倭人伝では「わ」、古事記では「やまと」です。つまり、「わ」と読んだ時代から「やまと」と読むように変化しているわけで、その変化は何故起こったのか。これは卑弥呼の時代(3世紀前半)と出雲建国の時代の関係、そして出雲王権と大和王権の関係を考える上で、重要なキーになりそうな予感がします。

さらに言えば、魏志倭人伝がいう「倭(国)」の女王国である邪馬壱(台)国が大和にあったとして、「わ」と発音した文字をそのまま「やまと」と読むように変わる必然性はどこにあったと考えられるのか。今は私には?です。

三つ目は、出雲を建国した大国主は、なんのために「倭国(やまとのくに)」に旅立とうとしたかです。纒向遺跡が3世初頭から築造され3世紀後半に一度画期を迎えているので、すでに大和には大きな権力が存在したことは事実です。この時すでに大和の王権(天皇家の前身)が存在したのか、存在したとすれば大国主は何の目的で大和へ行こうとしたのか。考古学と古事記の接点を探るのも大変面白いテーマですね。

最近読んだ本ですが、「なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか(関裕二著/実業之友日本社)」は大変おもしろく一気に読んでしまいました。「大和建国に出雲は深くかかわっていた」というのが結論(推論)のひとつになっています。現時点では、私にはそれ以上のことは言えないのですが、いずれこれらの疑問を解いていきたいものです。

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[古事記と日本書紀の成立過程について]

作成:2010年10月20日
補足:2012年11月23日

私の住んでいる所は滋賀県大津市衣川と言うところで、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)が最後にこの地で自決したという伝承が残っている。そして、大友皇子を祀った鞍掛神社が近くにあり、その時の侍臣の子孫という8人の侍が今もこの神社を守っている。(歴史散歩・大津市衣川・鞍掛神社 参照)

そんなことで、近所にはちょっとした郷土史家もいらっしゃる。ひょんなことで知り合いになった郷土史家の方に「古事記の勉強を始めました。古事記の神々をデータベース化しているところです」と言ったら、足下に「あれは偽書ですから、そんなものをまともに勉強するのは無意味です」と言われた。 ちなみにその方の奥様は大学で古典文学、殊に古事記を学ばれたということなので、ちょっと夫婦仲を心配する次第なのだが。。。。

私も古事記偽書説というのがあるのは知っていたが、あまり真剣に考えてもいなかったので、あらためて古事記や日本書紀の成立過程について興味を持つことになった。
古事記(岩波文庫)を校註した倉野憲司氏はその解説の中で「古事記(序文、または序文も本文も)の和銅成立に疑いを抱き、これを後の偽作であるとする説をなすものがある。・・・・中略・・・・ 今日これらの偽書説を是認する人は殆どないと言ってよい。殊に上代特殊仮名遣からすれば、古事記が奈良時代の初期に成立したことは疑いないところである。ただし、偽書説が提示した正当と思われる疑義については、これを十分に取り上げて解明する努力が必要であろう。」と述べている。(1962年)

ということは、古事記偽書説は完全に否定されたわけでなく、いくつかの疑わしき点がまだ残っているということになる。そこで、古事記偽書説の根拠を調べてみた。三浦佑之氏が「古事記年報」第47号(2005年1月28日)に発表した記事(2004年6月に行われた古事記学会大会における講演を原稿化したもの)が 古事記「序」を疑う(三浦佑之)に掲載されている。そこに、西條勉氏が整理した 10 の疑問点(「偽書説後の上表文」『古事記の文字法』笠間書院、1998年、所収)が記載されていて、それぞれに対する氏の見解が記されている。以下その疑問点と三浦氏の見解である。

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 (1) 続日本紀に撰録の記事がない。
 (2) 古事記が日本書紀に引かれていない。
 (3) 平安時代まで他書で存在が確認できない。
 (4) 序といいながら上表文の体裁をとる。
 (5) 署名が不備である。
 (6) 稗田阿礼が疑わしい。
 (7) 序文の壬申の乱の記事が日本書紀に基づいている。
 (8) 本文に平安朝でなければ書けない記事がある。
 (9) 本文(注)の万葉仮名が奈良朝以後の用法である。
(10) 序文の日付は仮託されたものである。

(1)(2)(3) は古事記本文が偽書であることの理由にはならない。
(8) は一部分の事であって古事記本文全体の成立を平安時代以降とする根拠にはならない。
(9) については、祝詞に用いられた音仮名の一四六種について、古事記の音仮名に一致する音仮名の一致率を日本書紀や万葉集と比べると、むしろ古事記の一致率が一番低く、古事記本文が偽書である根拠にはならないと反論している。([筆者コメント] これが (9) を否定することになるのかどうか、よく判らないが。。。。)
  古事記の音仮名と一致するもの   一一五文字種(七九%)
  日本書紀の音仮名と一致するもの  一二九文字種(八八%)
  万葉集の音仮名と一致するもの   一四二文字種(九七%)
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[筆者注] 祝詞(のりと)
Wikipedia を参照すると、「祝詞(のりと)は、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって加護や利益を得んとする文章。通常は神職によって独自の節回しによる朗誦が行われ、文体・措辞・書式などに固有の特徴を持つ。・・・中略・・・祝詞と名づけられた文章のもっとも古い例は、『延喜式』巻八に収録する29篇と藤原頼長『台記』別記所収「中臣寿詞」の計30篇である。以上はすくなくとも奈良時代以前にまで遡りうる貴重な文献であり、古代の祝詞の姿を現在に伝える重要な資料である。延喜式所収の29篇の祝詞は以下のものである。以下 29編のリスト。。。。」とあり、三浦氏がどの祝詞(あるいは全ての祝詞)を参照したか定かではないが、少なくとも奈良時代以前にまで遡りうる祝詞も含めて参照されているのであろう。

さらに三浦氏は、古事記には「序」にいう和銅五年、七一二年にではなく、それ以前の七世紀代に書かれたのではないかと思わせるもっとも有力な根拠が、いわゆる上代特殊仮名遣いの中の「も」の存在であるとする。これは倉野氏も言及している事なので、上代特殊仮名遣いの「も」とは何のことか調べてみると、http://www.ookuninushiden.com/newpage70.html に記述があった。以下その要約である。

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<上代の発音と上代特殊仮名遣い>
(ア列)  ア  カ  サ  タ  ナ  ハ  マ  ヤ  ラ  ワ
(イ列)  イ  キ  シ  チ  ニ  ヒ  ミ     リ  ヰ
(ウ列)  ウ  ク  ス  ツ  ヌ  フ  ム  ユ  ル
(エ列)  エ  ケ  セ  テ  ネ  へ  メ     レ  ヱ
(オ列)  オ  コ  ソ  ト  ノ  ホ  (モ)  ヨ  ロ  ヲ

イ列のキヒミ、エ列のケヘメ、オ列のコソトノヨロの十二種類に甲類、乙類の二種類の書き分けがある。ということは、二種類の発音があるということを意味する。ところが「古事記」にはこの十二種類の音以外に「モ」の特殊仮名遣いが二種類存在する。奈良時代末期になるとこれら甲類、乙類二種類の書き分けは次第に乱れ、平安時代にはほとんど見られなくなる。
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「古事記」特有の「モ」の特殊仮名遣いが二種類存在するということは「古事記」が「日本書記」などよりも古く成立していたという決定的証拠となるという訳である。

では古事記序文はどうなのか。三浦氏は(4)(5)(6)(7)(10)を根拠としてというより、別の大きな理由でこれを偽書と推定している。その理由は、「『日本書紀』天武十年(681年)三月丙戌(十七日)の条と『古事記』序における『天武天皇による史書編纂の詔』の矛盾である。どちらの記述も正しいとすると、天武天皇は、『古事記』と『日本書紀』両方の編纂を命じたことになり、この矛盾を説明できないかぎり『古事記』序の記述の方が怪しい。」というのである。

[参考1] 「日本書紀」天武十年(681年)三月丙戌の条
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前略
・・・・
天皇、大極殿(おほあんどの)に御(おはしま)して、川嶋皇子(かわしまのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)、広瀬王(ひろせのおほきみ)、竹田王(たけだのおほきみ)、桑田王(くはたのおほきみ)、三野王(みののおほきみ)、大錦下上毛野君三千(だいきむげかみつけのきみみちぢ)、小錦中忌部連首(せうきむちういむべのむらじおびと)、小錦下安曇連稲敷(せうきむげあづみのむらじいなしき)、難波連大形(なにはのむらじおほかた)、大山上中臣連大嶋(だいせんじやうなかとみのむらじおほしま)、大山下平群臣子首(だいせんげへぐりのおみこびと)に詔(みことのり)して帝紀(すめらみことのふみ)及(およ)び上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記(しる)し定(さだ)めしめたまふ。
・・・・
後略
--------------------------------------------------------------------

[参考2] 「古事記」序
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古事記 上つ巻 序を并(あは)せたり
・・・・
中略
・・・・
ここに天皇詔(の)りたまひしく、「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家の画像文字_もた(もた)る帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虚僞を加ふ』・・・・中略・・・・故(かれ)これ、帝紀を撰録し、舊辭を討覈(とうかく)して、僞(いつは)りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」・・・・中略・・・・時に舎人(とねり)ありき。姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、・・・・中略・・・・すなわち阿禮に勅語して皇帝日繼(すめらみことのひつぎ)及び先代舊辭(さきつよのふること)を誦(よ)み習(なら)はしめたまひき。
・・・・
中略
・・・・
ここに、舊辭の誤り忤(たが)へるを惜しみ、先紀の謬(あやま)り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮の誦む所の勅語の舊辭を撰録して獻上せしむといへれば、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細(しさい)に採り画像文字_ひろ(ひろ)ひぬ
・・・・
中略
・・・・、并せて三巻を録(しる)して、謹みて獻上(たてまつ)る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

和銅五年正月廿八日 五位上勲五等太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)
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「古事記」序が偽書であるとすると何が偽りなのか。次の5点のいずれかひとつ、あるいは二つ以上ということになる。
(1) 天武天皇が皇帝日繼と先代舊辭の作成を意図したこと。
(2) 天武天皇が語る皇帝日繼と先代舊辭の勅語を阿禮が誦習したこと。
(3) 和銅四年(711年)に元明天皇の命により安萬侶が「古事記」編纂を始めたこと。
(4) 安萬侶が阿禮の誦む勅語(天武天皇が語った皇帝日繼と先代舊辭)を基に「古事記」を編纂したこと。
(5) 和銅五年(712年)に安萬侶が時の元明天皇に「古事記」を献上したこと。

(1)(3)(5) を否定できる根拠は(今のところ初学の私には)見つからない。(2) については以前から気になっていたことである。天武天皇が「すなわち阿禮に勅語して皇帝日繼及び先代舊辭を誦み習はしめたまひき。」というから「天武天皇が語った言葉を阿禮が誦習した」のである。阿禮には冠位も書かれていないし、官吏かどうかも判らない。そんな阿禮に天武天皇が勅語するであろうか。

[2012年11月23日 補足]
稗田阿禮は「舎人」とあるので、天武天皇に直接仕えて警護・雑用をしたか、あるいはその他の皇族に仕えて同様の仕事をしていた人物ということになる。「舎人」は天皇・皇族に仕える役職ではあるが官吏ではない。

さらに言えば、「古事記」本文は、その上代特殊仮名遣いから見て、奈良時代初期あるいは以前に書かれたと判断できるので、その頃にはすでに言葉を文字にすることが可能だったはずである。「古事記」編纂の基となった「帝紀」や「舊辭」も当然文書で存在していたことになる。これらの文書になった資料を基に僞削・實定するのに何故阿禮に誦習させる必要があったのか。天武天皇の勅語を文字が書ける人間に筆録させる方がよほど正確であり、後の文書化も容易なはずである。阿禮に誦習させるというのは、皇帝日繼と先代舊辭を作成する方法としてはすこし軽すぎるように思うし、天武天皇が皇帝日繼と先代舊辭を作成しようとした意図がその程度のものであったのかと疑問が残る。

壬申の乱によって天智天応時代の優秀な文官達が天武天皇時代に引き継がれず、天武天皇には優秀な文官がいなかったという説をどこかで読んだような記憶があるのだが、文字が書ける文官が一人もいなくて阿禮に誦習させるしか方法がなかったのだろうか。それも考えにくい。

以上のような不自然さを考慮すると「古事記」序が偽書であるという説は否定しがたいところである。

ところで「日本書紀」の方であるが、その成立に関係する記録として、「日本書紀(岩波文庫)」の校註者の一人である坂本太郎氏がその解説の中でいくつかの資料を引用している。それらと前述の資料を合わせて、内容を時代順に以下にリストしてみた。

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「日本書紀」天武十年(681年)三月丙戌の条(前述)
天武天皇が「帝紀」及び「上古諸事」の記定を川嶋皇子以下15人に命じる。

「日本書紀」持統天皇五年(691年)八月辛卯の条
大三輪氏ら十八氏に、その祖先の墓誌を上進させたことを記す。

「古事記」序(前述)
和銅四年(711年)九月十八日 元明天皇が「古事記」撰録を太朝臣安萬侶に命じる。
和銅五年(712年)正月廿八日(712年) 太朝臣安萬呂が「古事記」を元明天皇に獻上する。

「続日本紀」和銅六年(713年)五月甲子の条
元明天皇が諸国に風土記撰述の命を下した。

「続日本紀」和銅七年(714年)二月戊戌の条
元明天皇が従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に国史を撰ばしむ。

「続日本紀」養老四年(720年)五月癸酉の条(元正天皇)
一品舎人親王が「日本紀」を元正天皇に奏上する。
先(レ)是一品舎人親王奉(レ)勅修(二)日本紀(一)。至(レ)是功成奏上。紀卅巻系図一巻。

「弘仁私記」序
「弘仁私記」は弘仁三年(812年)に行なわれた「日本書記」講書の記録。その序文に「弘仁私記序曰、夫日本書紀、者一品舍人親王、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、奉敕所撰也」とあり、太朝臣安麻呂が「日本書紀」の編纂者の一人であったと記しているが、これを引用した坂本氏自身、太朝臣安麻呂が「日本書紀」編纂に加わったというこの記事の信憑性を疑っている。
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[参考] 続日本紀(しょくにほんぎ)
続日本紀は、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『日本書紀』に続く六国史(りっこくし)の第二に当たる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。(Wikipedia による)

「古事記」と似て非であると言われる「日本書紀」であるが、あれだけ膨大で精緻に書かれた日本国の歴史書であるのに、こちらには「序文」のようなものが何故ないのか大いに疑問が残る。編纂者や執筆者、作成年月日、作成・編纂の意図・目的・経過など、重要文書に不可欠な要素が記録されていない。

「日本書紀」の天武十年(681年)三月丙戌の条に「天武天皇が『帝紀』及び『上古諸事』の記定を川嶋皇子以下15人に命じた」こと、後の歴史書「続日本記」和銅七年(714年)二月戊戌の条に「元明天皇が従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に国史を撰ぶよう命じた」こと、同じく「続日本記」養老四年(720年)五月癸酉の条に「一品舎人親王が『日本紀』を元正天皇に奏上した」ことの記載があるだけである。

天武天皇が意図した「帝紀」及び「上古諸事」が「日本紀」のようなものだったかどうかは分からないし、元明天皇が編纂を命じた国史が「日本紀」になり、「日本紀」が後に「日本書紀」と言われるようになったのだとしても、天武−持統−文武−元明−元正と5代の天皇(39年間)に渡ってどんな経緯で「日本紀」が成立したのか、それが隠されている。

さらに言えば、「日本書紀」には故意に歴史を歪曲したとしか思えない記述があることが指摘されている。「なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか/関裕二/実業之日本社/2008年」では、それらが色々論ぜられている。 その中でも、誰もが認めざるをえないのが神功皇后の年代である。神功皇后が実在したかどうかは別にして、「日本書紀」では神功皇后の在位年は、201年から269年である。

ところが、その内容には次のような矛盾がある。
(1) 神功摂政39年(239年)条の分注に魏志倭人伝を引用し、難斗米を魏に派遣して朝貢したとあり、神功皇后が難升米を魏に派遣して朝貢した卑弥呼であったように記述。
(2) 神功摂政66年(266年)条の分注に普書起居注を引用し、倭の女王が通訳を介して普に貢献したとある。
(1)(2)は神功皇后が卑弥呼であったと記述しているのである。中国の資料を引用した記述なので、当然年代は間違っていない。

しかし次の記述は明らかに史実とは120年ずれているのである。(実際は120年後のできごとである)。
(3) 神功摂政55年(255年)条に「百済の肖古王(せうこわう)薨(みう)せぬ」とあるが、朝鮮の三国史記では、これは375年である。
(4) 神功摂政65年(265年)条に「百済の枕流王(とむるわう)薨(みまか)りぬ」とあるが、朝鮮の三国史記では、これは385年である。

つまり、神功皇后紀は201年から389年までを201年から269年に圧縮して記述しているのである。神武天皇即位を紀元前660年として(これは辛酉革命説により恣意的に決められたとされている)紀年した時、単に120年分が足りなくなって時代を圧縮したというのではないだろう。120年分を闇に葬る必要があったか、あるいは前後の時代を120年分間延びさせる必要があったとしか思えないのである。

3世紀初頭から4世紀末といえば、卑弥呼の邪馬台国、出雲王国、原初の大和王権、そして日本統一へと向う、古代日本の激動の時代であり、極めて謎の多い時代であるが、「日本書紀」がこの時代をこのように記述したのは、極めて不誠実である。

また「日本書紀」には、「一書に曰く(あるふみにいはく)。。。。」なる表現で記述された別伝がやたらに多い。諸家に伝わる別伝をできるだけ忠実に記録したとも取れるが、どれが定説の伝なのかをごまかす手法ではないかと疑いたくなってしまう。別伝にはそれに対する評価や見解が必要であろう。別伝をあたかも定説の伝のように書き、定説の伝を別伝にしてしまうことも恣意的にできてしまう書き方である。

結論的に言えば、「日本書紀」は体裁は立派な歴史書ではあるが、その実態にはとても胡散臭いものを感じる。古代史の謎解きにあたっては、貴重な資料であるが故に注意深く読まなければならないとあらためて思う次第である。

翻って「古事記」について考えると、その序文の真偽がいづれであっても、本文の内容、表現が、素直で虚飾を感じさせない。天皇崩御年齢や崩年干支、在位年数などの記述が部分的にはあっても無理に紀年を作成していない。何らかの伝承(文書や口承)があまり歪曲されずに編纂された印象が強い。

明らかに、「古事記」と「日本書紀」は編纂者の立場が違っている。「日本書紀」は何かをごまかそうとし、「古事記」の存在を完全に無視している。一方の「古事記」は虚飾を感じさせない純朴な面持ちで、古代史を語る。そして明確に自分の存在の正当性を「序」に述べている(真偽は別にして)。その違いこそ、古代大和王権成立の過程に対する見解の違い、王者となった者と従属せざるを得なくなった者の立場の違いを物語っているような気がするのである。

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