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項目
仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』仏教は、約2500年前に釈迦が提唱し、現在に続く世界宗教。 キリスト教・イスラム教と並んで、世界三大宗教のひとつと言われる。
釈迦を仏陀(buddha)と尊崇し、その教え(法)を理解し、禅定(ぜんじょう)などの実践修行によってさとりを得、煩悩をのぞき、苦から解脱(げだつ)して涅槃の境地に入ることを目標とする。
また、初期仏教には具体的に崇拝するシンボルは無かったが、紀元前後にガンダーラで仏像が製作されるようになって以降、現在は如来・菩薩・明神など、さまざまな崇拝対象がある。しかし、仏教の教えに従えば、仏像自体に価値があるわけではないことはもちろんである。
特徴
仏教の教えには神は存在せず、ユダヤ教やヒンズー教のように特別な人格からの託宣に従わなければならないという意味合いでは、いわゆる啓示宗教ではなく、考え方または在り方の側面が強い。また、実践においては、認識論的な手法が用いられ、さとりも現実をどのように認識するかによって得られると考えるべきであろう。歴史
釈迦が入滅(仏滅)して後、出家者集団(僧伽)(サンガ)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。仏典は、この時には口誦によって伝承され、後に文字化される。僧伽は、仏滅後100年ごろ、教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂(根本分裂)する。時代とともに、この二派はさらに多くの部派に分裂する。この時代の仏教は部派仏教と呼ばれる。
部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)。このグループの仏教は、「自己の救いのみを目的とする」として、以前は大乗仏教側から小乗仏教と呼ばれていた。
紀元前後、在家者と釈迦の墓(仏塔)(ストゥーパ)の守護者たちの間から、出家することなく在家のままでも仏となる教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・日本に伝わっている(北伝仏教)。
7世紀ごろベンガル地方で、タントラ教(Tantra)と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となる(即身成仏)ことができるとする。
密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。
釈迦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』釈迦(しゃか、シャーキャ、zaakya)
- 紀元前7〜6世紀頃に、ネパールに居住していた部族。釈迦族を参照。
- 1.の出身で、仏教の開祖(本稿で詳述する)。
- 2.を超自然的な存在(仏)とみなしたもの。釈迦如来を参照。
釈迦(しゃか)(前463年 - 前383年、前566年 - 前486年、前624年 - 前544年、誕生日4月8日、命日2月15日)
仏教の開祖。釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ (zaakya‐muni (sanskrit)))の略。釈迦牟尼世尊ともいい、略して釈尊(しゃくそん)ともよばれる。原語の「シャーキャ・ムニ」は「釈迦族の聖者」の意味である。
生涯
誕生釈迦は現在のネパールのカピラヴァスツ(迦毘羅城、kapila-vastu (sanskrit))に国家を形成していた釈迦族の出身であった。釈迦の故郷であるこのカピラヴァスツは今のネパールのタライ地方 (tarai (sanskrit)) のティロリコート (tilori-kot (sanskrit)) 付近を中心とする小さな共和制の国で、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。家柄は王 (raaja (sanskrit)) とよばれる名門であった。このカピラヴァスツの執政官、浄飯王(じょうぼんのう、シュッドーダナ (zddhodana (sanskrit)))を父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘摩耶(マーヤ (maaya (sanskrit))を母として生まれた。
母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニ (lumbini (sanskrit)) の花園で休んだ時に誕生したと言われる。ガウタマ・シッダールタ (gautama siddhaartha (sanskrit)、gotama siddhattha (pali)) と名づけられた。生後一週間で母の摩耶は亡くなり、その後は母の妹、摩訶波闍波提(マハープラジャパティ、mahaaprajapati (sanskrit)) によって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったから、摩耶も摩訶波闍波提も浄飯王の妃であった可能性がある。
釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられている。
釈迦は浄飯王らの期待を一身に集め、2軒の専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で従妹の耶輸陀羅(ヤショーダラー (yazodharaa (sanskrit)))と結婚し、一子、羅?路羅(ラーフラ (raahula (sanskrit)))を儲ける。
出家
当時はウパニシャッド哲学を基盤としながら、ベーダ経典の権威を認めない自由思想家が多く現れた時代であった。釈迦もその潮流を受けて、人生の無常の現実に苦悩する毎日を過ごした。
29歳、出家。沙門(しゃもん ((sanskrit) zramaNa))となって修行の道に入った。この出家の顛末を寓話的に表したのが四門出遊の話である。
最初にアーラーラ・カーラーマ (aalaara kaalaama (sanskrit)) に、次にウッダカ・ラーマプッタ (uddaka raamaputta (sanskrit)) について、伝統的な修定による行をする。しかし、彼らの段階まですぐに到達しながら、真に人間の苦悩の解決にはならないと、彼らの下を去って、マガダ国ウルヴィルヴァー (uruvilvaa (sanskrit)) のセーナー (senaa (sanskrit)) 村で6年の苦行生活に入る。この苦行は、他の沙門の誰よりも厳しいものであったと、後に釈迦自身が回想している。ところが、この苦行によっても現実苦を超克することができない。
成道
そこで釈迦は、まったく新たな独自の道を歩むこととする。ともに苦行を行っていた5人の沙門と別れ、尼連禅河(にれんぜんが、ネーランジャナー (nairaJjanaa (sanskrit)))で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala (sanskrit)) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、49日間の観想に入った。そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを成道と言い、古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修する。
釈迦は、この悟りを得た喜びの中で、このまま浸っていようと考える。一部の経典には「このまま無余涅槃に至ろうと考えた」との記述があることから、禅定にあるまま死を迎えようとされたと思われる。ところが梵天によって衆生に説くよう勧められる(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むバーラーナシー ((sanskrit) baaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
釈迦は、初めて5人の仲間にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この時初めて、釈迦は如来(タターガタ (tathaagata (sanskrit)))という語を使う。すなわち「ありのままに来る者」「真理のままに歩む者」という意味である。それは、現実を現実のままに認識し生きていくことを意味している。
初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(応供(漢訳)、arhan (sanskrit))あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言っている。次いでバーラーナシーの長者、耶舎(yazas (sanskrit))に対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えている。
教団
その後、当時有名だった事火外道(じかげどう)の3迦葉、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa (sanskrit))、ナディ・カッサパ (nadi kassapa (sanskrit))、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa (sanskrit)) を教化して、千人以上の構成員を持つようになった。
ついで王舎城(ラージャグリハ、(raajagRha (sanskrit)))に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えている。
王舎城に入って、頻婆娑羅(びんばしゃら、ビンビサーラ (bimbisaara (sanskrit)))王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎 (veNuuvana-vihaara (sanskrit)) を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人は舎利弗(シャーリプトラ、zaariputra (sanskrit))であり、もう一人は目連(マウドゥガリヤーヤナ、maudgalyaayana (sanskrit))であった。この二人は後に釈尊の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈尊の弟子アッサジ (assaji) 比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、舎利弗は叔父の長爪婆羅門を教化した。この頃に摩訶迦葉(マハーカッサパ、mahaakassapa (sanskrit))が釈迦の弟子になった。
以上がおおよそ釈迦成道後の二年ないし四年間の状態であったと思われる。この間は大体、王舎城を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者とだんだんと帰依し、後に持律第一とよはれた優波離(ウパーリ、upaali (sanskrit))も、このころに釈迦に帰依したと思われる。このようにして、教団の構成員はだんだんと増加し、ここに教団の秩序を保つために、いろいろの戒律が設けられるようになった。
伝道の範囲
これより後、最後の一年間まで釈尊がどのように伝道生活を送られたかはじゅうぶん明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァスツの訪問によって、釈迦族の子弟たち、羅?路羅、阿難(アーナンダ、aananda (sanskrit))、阿那律(アニルッダ、aniruddha (sanskrit))などが弟子となった。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえはクル国 (kuru (sanskrit)) のカンマーサダンマ (kammaasadamma (sanskrit)) や、ヴァンサ国 (vaMsa (sanskrit)) のコーサンビー (kosaambii (sanskrit)) などである。
成道後十四年目の安居はコーサラ国の舎衛城(シュラーヴァスティー、zraavastii (sanskrit))の祇園精舎で開かれた。
このように釈迦の教化され伝道された地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでおり、弟子となった人々の地域もこれらの範囲であったと思われる。
入滅
釈迦の伝記の中で最も克明に今日記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の長阿含経の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の大般涅槃経 (mahaaparinibbanna-sutta (pali)) などの記録である。
涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァスツに立ち寄り、コーサラ国王波斯匿王(はしのくおう、プラセーナジット、prasenajit (sanskrit))の訪問をうけ、最後の伝道が王舎城から開始されることになったのであろう。
このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子、毘瑠璃(ヴィルーダカ、viruuDhaka (sanskrit))が兵をあげて王位を奪った。そこでプラセーナジット王は、やむなく王女が嫁していたマガダ国の阿闍世王(アジャータシャトゥル、ajaatazatru (sanskrit))をたよって行ったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。
ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァスツの攻略にむかう。この時、釈迦はまだカピラヴァスツに残っていた。故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って二度阻止したが、ついにカピラヴァスツは攻略された。しかし、またこのヴィルーダカも戦勝の宴の最中に落雷によって死んだと記録されている。かくして釈迦はカピラヴァスツから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。
釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ (ambalaTThika (pali)) へ、ナーランダ (naalanda pali)) を通ってパータリガーマ (paaTaligaama (pali)) に着く。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ (paataliputra (sanskrit)) であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説く。
釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡りヴァッジ国のコーリー城に着く。ここで亡くなった人々の運命について、阿難の質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。釈迦はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道とのとうとい真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もほや生存に戻ることほない」と説法した。
次に釈迦は、このコーリー城を出発しナディカガーマ (nadikagaama (sanskrit)) を経てヴァイシャーリー (vaizaalii (sanskrit)) に着く。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリ (ambapaalii (sanskrit)) という遊女のマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ (veluva) 村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここで阿難などとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。
この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終る頃には気力を回復した。この時、阿難は釈迦の病の治ったことを喜こんだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるほずはないと、心を安らかにもつことができました」と言う。これについて、釈迦は「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。‥‥自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」と説法する。これが自帰依自灯明、法帰依法灯明の教えである。
やがて雨期もおわって、釈迦は、ベーシャリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪れられ、托鉢から戻って、アーナンダを促してチャパラの霊場に行かれた。ここで聖者の教えと神通力について説かれた。
托鉢をおわって釈迦は、これが「如来のベーシャリーの見おさめである」といわれ、バァンダガーマ (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ (hatthi)、アンバガーマ (ambagaama)、ジャンブガーマ (jaambugaama)、ボーガガーマ (bhogagaama)を経てパーヴァー (paavaa) に着く。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。
釈迦は、ここで鍛冶屋の純陀のために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになる。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaaraa) にむけ、その近くのヒランニャバッティ河のほとりにゆかれ、マルラ (malla) 族のサーラの林に横たわり、そこで入滅された。時に前386年2月15日のことであった。これを仏滅(ぶつめつ)という。
釈迦の入滅年時については、古来いろいろの説がある。一般には前486年(衆聖点記説)を用い、宇井伯寿の前386年説も学界に用いられている。
さて、仏陀入滅の後、その遺骸はマルラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた8大国の王たちは、仏陀の舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否した。そのため、遺骨の分配について争いが起こるが、香姓(ドーナ、dona)婆羅門の調停を得て舎利は八分され、おくれてきたマウリヤ族の代表は灰をえて灰塔を建てた。ちなみに、その八大国とは、(1) クシナーラーのマルラ族、(2) マガダ国のアジャタシャトゥル王、(3) ベーシャーリーのリッチャビ族、(4) カビラヴァストフのシャーキャ族、(5) アッラカッパのプリ族、(6) ラーマガーマのコーリャ族、(7) ヴェータデーバのバラモン、(8) バーヴァーのマルラ族である。
入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集(けつじゅう)した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。
釈迦の生涯を伝える文献
- 修行本起経〔大正・3・461〕
- 瑞応本起経〔大正・3・472〕これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
- 過去現在因果経〔大正・3・620〕普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
- 中本起経〔大正・4・147〕成道から晩年までの後半生について説く。
- 仏説衆許摩房帝経〔大正・3・932〕
- 仏本行集経〔大正・3・655〕これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
- 十二遊経〔大正・4・146〕成道後十二年間の伝記。
- 普曜経。
- 方広大荘厳経−これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。
- 仏所行讃〔大正・4・1〕 (Sanskrit, Buddha-carita) 馬鳴著
- Lalita vistara
- Mahavastu
- 遊行経 『長阿含経』中
- 仏般泥画経 (Pali, Mahaparinibbanna sutta)
- 大般涅槃経 法賢訳・・・以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの
注 〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
仏陀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』- 悟りを開いた人のこと(本稿で詳述)。
- とくに仏教の開祖。釈迦を参照。
仏陀(ブッダ、buddha)は、仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味。
一般的に日本では、仏教の開祖、釈迦を仏陀と見ている。しかし、インドなどでは釈迦独りが仏陀と規定されているわけではない。
仏教文献では、仏陀をさまざまな表現で呼んでいる(十号)。
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- 如来(にょらい、tathaagata (sanskrit))
- 真実のままに現れて真実を人々に示す者
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- 応供(おうぐ、arhat (sanskrit))
- 阿羅漢とも訳されている。煩悩の尽きた者。
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- 等正覚(とうしょうがく、samyak-saMbuddha (sanskrit))
- 一切智を具し一切法を了知する者。
(ここまでは一般に悟った人に対する尊称として使われる。ここから後は仏教の釈迦にのみ対する尊称)
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- 明行足(みょうぎょうそく、vidyaacaraNa-saMpanna (sanskrit))
- 宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
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- 善逝(ぜんぜい、sugata (sanskrit))
- 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。
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- 世間解(せけんげ、lokavid (sanskrit))
- 世間・出世間における因果の理を解了する者。
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- 無上士(むじょうし、anuttra (sanskrit))
- 惑業が断じつくされて世界の第一人者となれる者。
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- 調御丈夫(じょうごじょうぶ、puruSadaMyasaarathi (sanskrit))
- 御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる。
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- 天人師(てんにんし、zaastaa-devamanuSyaaNaam (sanskrit))
- 天人の師となる者。
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- 仏(ぶつ、buddha (sanskrit))
- 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。
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- 世尊(せそん、Bhagava.t (sanskrit)
- 人天の尊敬を受ける栄光ある者。真実なる幸福者。
仏教経典の中で釈迦に対して、漢訳では一般に「世尊」と呼びかける。パーリ語・サンスクリット語経典での呼びかけは「ブッダ・バガヴァーン」が一般的である。つまり「目覚めて幸せな者よ」という呼びかけである。ここに、仏教における釈迦に対する見方がある。ひいては、衆生の目指す目標もまた、無明の闇から目覚めて、ゆるぎない幸福を求めることが目標となっている。
また、釈迦は自分の教えに神の存在を含めなかった。後の人々は、神と同様の概念を仏陀に含めたり、神として崇拝されてきた存在を仏陀の守護者としている。ヴェーダの宗教で神と呼ばれている多くの神が「…天」の名前で守護神となっている。これらの名前はほとんど中国でつけられており、「天」には中国語で神の意味もある。
なお、仏陀は自分の姿を記録したり崇拝することを許さなかったが、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。しかし死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。多くの仏教の宗派では、ブッダ(仏陀)は釈迦だけを指す場合が多く、光明を得た人物を意味する場合は別の呼び名が使われる。
悟り(光明)を得た人物をブッダと呼ぶ場合があるが、これは仏教、ことに密教に由来するもので、ヴェーダの宗教の伝統としてあるわけではないと思われる。
一般には釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在をブッダと呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我をブッダと呼んだり、仏性とよんだりする。場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。
近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けてニューエイジと呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在をブッダと呼ぶ伝統が一部に広まった。
仏教経典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』仏教経典は、仏教の開祖ゴータマ・シッダッタ(仏陀・釈尊)が紀元前5世紀頃に行った講話録である。ただし、ゴータマ・シッダッタは記録を取ることを禁じたため、現在に伝わっているのは後になって記録されたものである。
ゴータマ・シッダッタの入滅の?年後に彼の話を直接聞いた弟子達が集まって会議を行い、その遺志に反してゴータマ・シッダッタの講話の記録を記録編簒した(仏典結集)。したがってそれは完全または正確な記録とは言いがたい。ちなみに多くの仏典は、「私はこの様に聞いた(如是我聞)」で始まる。「ゴータマ・シッダッタはこのように語った」ではないのである。
経典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』経典
- きょうてん。仏教の聖典の分類の一。本稿で詳述する。
- きょうてん。仏教以外の教典のことをこのように表記する場合もある。
- けいてん。主に儒教において、聖人・賢人の教えを記した書物のこと。四書五経など。
経典 (きょうてん、suutra (sanskrit)、sutta (pali))
「経」とは仏教聖典の内、釈迦が説いた教えを記録しているもの。修行法や戒律に関するものは「律」、経典を注釈したものは「論」と呼ばれ、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼ぶ。「経典」という場合、狭義には「経」のみを指すが、広義には仏教典籍全般を指す。その意味では仏典と同義である。言語的には、パーリ語・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、漢語、チベット語、モンゴル語、満州語のものがあり、西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。
また、経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、基準外のものは「蔵外(ぞうがい)」と称された。昭和9(1934)年、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。
パーリ語経典
経(スッタ、sutta)は釈迦や、弟子たちの言行録を集めたもの。釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは経典編集の集会(結集(けつじゅう))を開き、経典整理を開始した。ところが、仏滅後100〜200年ころには教団は多くの部派に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。完全な形で現存するのは、スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語経典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。
- 律蔵 経分別(戒律の本文解説)、犍度(けんど、教団の制度規定)、付録。
- 経蔵 長部、中部、相応部、増支部、小部の5部。
前4部は漢訳『阿含経 (あごんきよう)』に相当する。 - 論蔵 法集論、分別論、界説論、人施設論、論事論、双対論、発趣論の7部。
注意が必要なのは、パーリ語経典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『阿含経 』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ語経典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。
チベット経典
7世紀ソンツェン・ガンポ王の命令で、経典のチベット語訳は、トンミサンボータによって始められ、13世紀ころには大蔵経が木版で刊行された。チベット大蔵経はカンギュル(甘殊爾)とテンギュル(丹殊爾)からなり、前者は経・律、後者は論を収めている。その中に、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳経典の原型を探るためにも重要視されている。大蔵経は幾度も開板されたが、18世紀のデルゲ版、ナルタン版、北京版などが重要。
チベットからは、今までに見つかっていなかった典籍が突如として出てくることがある。これらは近世の僧によって作られた可能性が高く、信頼性が低い。
漢訳経典
中国における経典の漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、経典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には道安によって『綜理衆経目録 』が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集 』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、北朝の北魏で「一切経」と呼び、南朝の梁で「大蔵経」と呼んだといい、隋・唐初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も定着した。隋・唐時代にも多くの仏典目録が編纂されたが、最も重要なのは730年(開元18)に完成した智昇撰『開元釈教録 』20巻である。ここでは、南北朝以来の経典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗経典を般若、宝積、大集、華厳、涅槃の五大部としたうえで、大蔵経に編入すべき仏典の総数を5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、それ以後の大蔵経(一切経)の基準となった。
木版印刷による最初の大蔵経は、宋の太祖・太宗の両朝、971年(開宝4)から983年(太平興国8)にかけて蜀で印刷出版された。これは「蜀版大蔵経」と呼ばれ、毎行14字詰の巻子本の形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏、高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。983年に入宋した東大寺僧の?然(ちようねん)は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰った。
高麗では、11世紀前半に覆刻版を出し、その版木が元軍による兵火で焼失すると、13世紀中葉には再雕本を完成させた。今も海印寺に板木を収蔵する再雕本の「高麗大蔵経」は、最良のテキストとして高く評価されている。
南宋から明代にかけても各地で大蔵経の作成が続いたが、明末に新しい形式の袋綴じ本の「万暦版大蔵経」が出版された。
日本では、天平7(735)年玄?(げんぼう)が将来した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経 』が輸入された。
慶安1(1648)年。南光坊天海による『寛永寺版(天海版)』が徳川幕府の支援をうけて完成。
天和1(1681)年。鉄眼道光が『黄檗(おうばく)版一切経』を完成。
1885年。『縮刷大蔵経 』を刊行。
1905年。『卍字蔵経 』刊行。
1912年。『大日本続蔵経 』が完成。
世界における仏教界や仏教研究に寄与したのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大蔵経 』100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、24年から34年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。
漢訳経典の日本語訳も行われ、『国訳大蔵経 』『国訳一切経 』『昭和新修国訳大蔵経 』などがある。
仏典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』仏典とは「仏教典籍」の略称であり、仏教の聖典の総称である。俗に「八万四千の法門」といわれるように、千年以上にわたって生み出されてきた。インドの仏教史を見ると、釈迦を出発点とする原始仏教時代、部派仏教時代、大乗仏教時代の三つの時代を通して、経典は作成され続けている。さらにインドから仏教が伝播していく過程で、その渡来地の中国などでも経典が作られた事実がある。
したがって、仏典を読む場合には、その仏典の戸籍しらべをわすれてはならない。ことに経典はすべて釈迦が説いたものとされ、他の作者名が記されることがない。具体的に言うと、釈迦の入滅後数百年を経過して書かれたことが明らかな経典であっても、釈迦の教説を信仰上正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いた」という出だしで始められており、経典自身には、いつ、どこで作られたかは、明記されることはない。
戸籍が不明な経典の一つに、浄土三部経の『観無量寿経 』がある。いまだにインドで作成されたものか、中央アジアあるいは中国で成立したものか判断できない。梵文原典やチべット訳が見当たらず、漢訳とウイグル(中央アジア系民族)文の断簡が存在するのみのため、その戸籍が疑問視されている。このように、慣れ親しんだ経典でも、出自が不明なものも少なくない。
結集
仏教の経典は、釈迦時代は暗記によって保持された。この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。
この編纂会議を結集(けつじゅう、saMgiiti (sanskrit))と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。 その後も、仏典は数百年間は暗記によって保持され、文字に写されなかった。
原典
仏典の「原典」と呼ぶべき各国語に翻訳される以前の経典は、インドの言語による経典が中心になる。釈迦の用いた言語は、古代マガダ語的なものだろうと推定されるので、最初期の仏典は、この言語を使用したであろう。現在残る経典で、最も古いのは、パーリ語の聖典である。この時代の言語としては、サンスクリット語が古い歴史を持っていたが、大衆への布教を重要視する仏教は、雅語よりも一般的用語を用いたのである。仏教が東インドから西インドに発展していって、西インドで用いられていたパーリ語で仏典が認められる。
サンスクリット語で仏典が書かれたのは、後のことで、その場合でも俗語の要素が混入したもので、仏教梵語(Buddhist Hybrid Sanskrit)と呼ばれている。仏典の原典とは、これらの言語で書かれたもので、今日まで残されたものを言う。貝葉(ターラの葉を乾かし紙の替りに用いたもの)などを用紙として、文字にはデーヴァナーガリー文字(悉曇文字と同系統。七世紀ごろから発達)が多く使用されている。
経・律・論
仏典には、経・律・論の三種がある。- 経は、釈迦の教説を伝えるための教えの集成
- 律は、仏教徒としての行動規範を示すもの
- 論は、経や律に対する研究、解釈をまとめたもの
「経」とは、釈迦が教えを述べたものであり、経典(s^utra)と呼ばれる。
「律」は、戒律と呼ばれ、「戒」('s^ila)と「律」(vinaya)のことで、仏教徒が自発的に守るべきものとして、釈迦によって定められた。よく知られたものに、不殺生戒(生命あるものを殺さない)・不偸盗戒(人のものを盗まない)・不邪淫戒(不倫をしない)・不妄語戒(うそをつかない)・不飲酒戒(過度の飲酒をつつしむ)の五つの戒しめ(五戒)がある。
教団が発展するに従い、よからぬ行ないをする比丘(僧)が現われ、その都度、それらの行為を禁ずる戒めとそれに対する罰則が定められた。戒の数は今日、比丘二五○戒、比丘尼三四八戒である。この「戒律」という語は、通常区分されずに使われるが、「戒」は、出家・在家を問わず自発的な努力によって非行を阻止し、善に向かわせるという道義的性質を持ち、「律(vinaya)」は、出家僧に対する禁制とその罰則を規定した法規的性質を意味する。
「論」は、阿毘達磨(あびだつま、abhidharma)と呼ばれ、その語から「対法」とも訳される。釈迦の教説に対する研究・解釈の書で、論師が、自己や部派の仏教的立場を明確にするため、経のなかからその証を求めたり(経証)、組織的に論議を進めたり(理証)したものを集成した文献である。これらには、今日でも仏教を専門的に学ぶ者の必読とされるものが含まれている。
パーリ語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』パーリ語(paali)
多量の文献を持つ南伝仏教経典で主に使用される言語。中期インドにおけるアーリヤ系言語、プラークリット語を代表する言語。使用歴は長く、釈迦の教説を説いた経典の偈(げ)の古層は前3世紀ころまで遡る。さらに経典の散文、その注釈は、5-6世紀以後にまで及び、その後も今日までスリランカ(セイロン島)を中心として、この言語を使用した新しい文献がある。パーリ語は上座部仏教経典のための文語であり、元来どの地方の方言であったかは不明確である。古い伝説ではマガダ語からの派生であると言われるが、アショーカ王碑文との比較から西インド起源とする説が有力である。
最古の仏教文献は、釈迦の故郷であるマガダ地方の東部方言からパーリ語へ翻訳されたと推定されている。このために、パーリ語はアショーカ王碑文のうち西部のギルナールの言語に最も近いが、その中にマガダ語的な要素が指摘されている。
サンスクリット語(梵語)とくらべると、例えば「息子」が((sanskrit) putra)が((pali) putta)となるように子音の同化が目だち、また「刹那」((sanskrit) kSaNa)が((pali) khaNa)のような変化もみられる。しかし、他のプラークリット語よりはサンスクリット語に近い。名詞、動詞の組織は基本的にはサンスクリット語と同じである。ただ名詞では格の融合、動詞では態の差別、過去時制の差別が明確ではない。さらに構文は、一般に定動詞表現が中心であり、語順が一定して動詞が文末にくる。語彙はときにサンスクリットより古い形をもつ。例えば「ここに」は((sanskrit) iha)より古形の((pali) idha)となっている。
* パーリ語からサンスクリット語が作られたとする説はない。
インドの仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』インドの仏教は、仏教の開祖の釈迦牟尼(ゴータマ・シッダッタ)がインド北部に生まれたことに始まる。
釈迦在世時代の仏教については、釈迦、ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・ブッダの教団などを、参照。
インドは仏教発祥の地であるが、13世紀初頭にイスラム教徒の軍がベンガル地方に侵攻し、拠点精舎を破壊しつくしたことによって、ほとんど消滅してしまった。しかし、カシュミール、ネパール、東ベンガルなどに細々とながら現在まで存続している。
近代には、スリランカから逆輸入されたり、チベットからの難民受入れによるチベット仏教や、日本山妙法寺による布教、インドの大学に対して講師派遣など日本からの支援によって、五百万人前後の仏教徒が現在もいる。
インド仏教の特色
インドにおける仏教の特色は、きわめて認識論的な行法を外しては考えられない。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けにくい。さらに、修行によって得られた智慧が重要な問題として意識される。その流れは瑜伽行唯識学派や中観派という大きな潮流を形成する。これはチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されている。
智慧を主題とする方法論的流れは、部派仏教から大乗仏教に通じるものであったと見られる。そのため、相互の交流はほとんどない(?)が、互いに補完しながら教学が形成されているように見える。
インドの仏教の最終形態としてタントラ密教に至るが、これは仏教が西方に伝播される時に、その地域の考え方などに影響を受けて、すべての事象を象徴化することによって体系化したものと見られる。
また、インドにおける仏教は、学派ごとに活動していたことに特色がある。この動きは南伝仏教などにも伝承されているようである。 しかし、中国や日本ではまったく異なった形態をとっている。中国では学派というよりは、寺院ごとのまとまりが強く、いくつかの学派が一つの寺院に並存することがある。また、日本では個人の思想や教えによってグループが形成されている。
インド仏教の歴史
13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。 大きく分けると- 開教から教団分裂まで 約 100 年間
- 部派仏教の成立 前3世紀ごろ
- 大乗仏教運動の興隆 前1世紀ごろ
- 密教の成立 7世紀ごろ
しかし、大乗仏教が成立しても、部派の教団は存続し教理の展開がある。また、密教の萌芽は大乗仏教に見られるし、中観派との密接な交渉は途切れることはない。つまり、それぞれは重層的に共存していたと考えられる。
最初期
最初期の仏教のことをprimitive Buddismと西欧では呼んでいる。日本では、原始仏教とか根本仏教と呼ぶことが多い。このように呼ぶときは、釈迦と直弟子の時代を指すか、アショーカ王時代までを指す。
釈迦やその弟子たちの活動範囲は、インドの北東部、ガンジス河中流域であった。釈迦の晩年に、ようやく西方インドのアヴァンティ国に発展した。
釈迦自身が使った言語は、古代マガダ語もしくは古代東部インド語であったとされ、痕跡はパーリ語聖典にも残っている。アショーカ王の時代には、西インドで成立したパーリ語が聖典用語として用いられた。
釈迦が亡くなってほどない頃、王舎城郊外に五百人の比丘が集まり、最初の結集が行われ、経典と律とがまとめられた。座長は摩訶迦葉、経は阿難、律は優波離が担当したと伝えられている。
仏教が急激に広まるのは、マウリヤ朝第 3 代アショーカ王の時代である。彼は、仏教以外の宗教も奨励したが、何より仏教を広めるのに尽力をした。
この頃、戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、分裂しそうになった。アショーカ王の仲裁もあったが、上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに上座部と大衆部に根本分裂した。
仏滅後約100年。この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第 2 結集が行われた。さらに仏滅後二百年には、アショーカ王の時代に、パータリプトラで 1 千人の比丘を集めて、第 3 結集が行われた。
部派仏教
根本分裂以後も、仏教の布教活動は盛んであった。西方のガンダーラからアフガニスタンへ、さらに中央アジアへと教線は広がっていった。
前3世紀中頃、スリランカのデーバーナンピヤ・ティッサの時代に、マヒンダ比丘(伝、アショーカ王の王子)が仏教を伝え、都に大精舎が建てられた。以後、ここを中心に上座部が栄え、社会や文化に大きな影響を与えた。
しかし、この後も教団の分裂は続く。仏滅後三百年の初めに上座部は、説一切有部と雪山部に別れ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後三百年には説一切有部から飲光部が、さらに四百年には、説一切有部から経量部が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系 11 部、大衆部系 9 部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の聖典を持つにいたる。
大乗仏教運動の興隆
これらの比丘たちの教団とは別に、在家者の中にも仏教の信奉者は多く存在した。在家者は、仏滅後に作られた遺骨などを納めた仏塔(ストゥーパ)に参拝していたようである。信徒たちは、人格の息吹きが感じられる「仏法」を通して仏教を受け止めた。また、仏塔には欄楯があり、そこにレリーフで釈迦牟尼世尊の一代記が描かれていた。参拝者にその一代記を説明する僧が登場し、仏塔の維持と仏教の布教活動を専業としてたようである。このような仏塔崇拝・仏陀崇拝の動きは比丘たちの活動とは別に底辺に流れ続けていたと思われる。
さらに、釈迦が亡くなってから、その偉大さを考える上で、他の誰にもできなかった成仏がなぜなし得たのかという問題が生じた。そこで、前生から輪廻を繰り返しながら修行が続けられたのだということで、前生の話がまとめ上げられる。そこには、インド各地に伝えられた伝説の主人公が、実は仏陀の前生であったとされたのである。その大半は慈悲による利他行を平易に説いたものであった。
前の信者の仏陀崇拝は、単に釈迦だけでは留まらなかった。同じく悟りを得て(光を得て)仏陀となったであろう、別の仏陀もまた崇拝することとなった。最初期には、釈迦の伝説上の指導仏であった錠光仏であり、直近の未来に仏となる弥勒菩薩への崇拝である。
この崇拝にも次第に理屈が付くようになる。それが信仰となってくるのである。自らの罪を懺悔し、教化を請い(勧請)、仏を讃嘆し、自らの善行を仏にささげる(回向)によって、自らも救済されるという新たな儀礼の登場となる。そこで、出家して比丘とならなくても、広く衆生を救いとるという大乗という概念が登場するのである。
このような信徒側の動きと同時に、僧侶側にも大きな動きがあった。それは最初期の経典が部派ごとに伝えられたために、部派間の聖典の突合せ作業を行わざるを得なかった。それまでの聖典は、ごく少数の人間を相手に釈迦が説く(対機説法)というものであった。そのバラバラな経典を主題ごとにまとめる作業が行われると、聖典に手を加えてはならないというタブーが破られることになった。新たな聖典の可能性がこのころから芽生えたと考えてよい。
そのような時に、ことに智慧や縁起を説明する『般若経』が成立する。あたかもいくつかの聖典を編集したという形ではあるが、そこには空という独自の視点で縁起を説明した教典であった。さらにこの経典には、信徒たちが築いた参拝活動を是認する論理が書き加えられた。
このように信徒の運動と、あい呼応して大乗経典が編纂されていったのである。これらの大乗経典は、ほぼ 3 期に分けて見られる。
- 初期大乗経典 般若経、維摩経、法華経、無量寿経
3世紀には龍樹によって空が体系化され、中観派の基礎を作る。 - 中期大乗経典 勝鬘経、涅槃経、解深密経、大乗阿毘達磨経
5世紀には無着、世親兄弟によって瑜伽行唯識学派が生まれる。 - 後期大乗経典 楞伽経、大乗密厳経
密教の成立
7世紀になると、大日経や金剛頂経が成立した。
仏教が密教化したのは、周辺の宗教から影響を受けた結果である。バラモン教や非アーリヤ文明を継承して、ヒンドゥー教と同じ基盤の上に大乗仏教の一環として成立した。ことに儀礼を強調することで、大乗仏教の信仰の部分を発展させたものと考えてよい。
この密教化は、周辺の土着文化や宗教を自らのものとして取り込み、各地の民族宗教と一体化しながら展開されたので、広げるという面では大きな力を発揮した。
インド社会との交流史
■ベーダとの交渉
アーリア人の発祥地は不明である。これはかなり怪しいが、現在のドイツ周辺部から東行して、イランからインドに入ったという説もある。おそらくは、カスピ海周辺部の遊牧民族の一部が南下東行して前2000年頃インドに入ったと考えられている。そのころにはインダス文明が栄えていたが、ほぼアーリア人に制圧された。
前1500年頃にはパンジャーブ地方に進行し国の基礎を気付いたとされる。このころから数世紀にわたって作り上げられたのがベーダである。この教典によって成立したのがバラモン教であり、そこには支配者としてのアーリア人によって作られた規範が盛り込まれている。
前1000年頃になると、祭式をとりしきるバラモン(司祭)の力が増大し、カースト制度が成立したのもこの頃と思われる。
このバラモンの力があまりに強固になったので、祭式至上主義を批判する者たちからウパニシャッド哲学が起こってきた。この新たな運動は、バラモンが優位に立っていた政治的制度的力を再検討し、本来のベーダに回帰しようとの動きでもあった。
このような運動がおし進められて、さらにはベーダそのものからも自由になろうとする沙門と呼ばれる自由思想家たちが登場する。釈迦もその一人であった。
当時の沙門たちの基本的な方法論は、瞑想などの修行によって、認識論的にすべての束縛からの解脱を求めようとするものである。それは、ベーダやウパニシャッドからも解脱しようとするものであった。
■興隆期
アショーカ王によりインドの国教として選ばれインド全体に広まった。アショーカ王は最初から仏教徒であったわけではなく、インドを統一後に自分の行った殺戮を後悔して仏教に改宗したといわれている。
■没落期
5世紀頃から11世紀頃にかけてインドにおける仏教の弾圧があり、インドから仏教徒は一掃された。弾圧はマウリヤ朝の崩壊とともにはじまり、インド北部から南部へ、西部から東部へと広まった。
バラモン教は、このころ土着の宗教との融合が進み、ヒンドゥー教の萌芽を迎えていた。しかし、まだこの頃には、仏教やジャイナ教、シーク教などは包含されていない。
14世紀以降は、政治的実権がイスラム教に移り、偶像崇拝の排除のために仏像や仏教寺院の破壊が行われた。
19世紀後半、イギリス人によって提婆達多の系列という森林修行者の集団が報告されている。このことは結集に参加しなかったグループがおり、この時期まで存続していたということなのかもしれない。現在は不明。
■その後の仏教徒の歴史
- 南インドからスリランカに移動し仏教を続けた。
- スリランカの仏教
- 北インドからネパールやチベット、ブータンに移動し仏教を続けた。
- ネパールの仏教 | チベット仏教 | ブータンの仏教
- 東南アジアに移動し仏教を続けた。
- 東南アジアの仏教
- 中国に移動した。
- 中国の仏教
- マハカーシャパの系列に当たるボーディダルマは船で中国に初めて禅を伝えた。
- ヒマラヤを越えて中国に渡った説もある。
- インドから西に逃げて仏教を続け、後にイスラム教に改宗した。
- インドに残留してヒンドゥー教に改宗し最下層の階級(スードラ:奴隷に近い)に組み込まれた。その後に一部がイスラム教に改宗した。
■現在
数は少ないが新しいインドの仏教徒がいる。現在も階級制が強く残っているインドのカースト制の下層の人々が仏教に改宗する運動もある。
近代に入って、スリランカから大菩提会の運動による再輸入があり、その影響で社会運動の一環としてのいわゆる不可触民の集団入信があったとされる。
部派仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』部派仏教(ぶはぶっきょう)
釈迦および直弟子時代の初期仏教を継承し、インドを中心に栄えた伝統的学派を指す。新興の大乗仏教側からは、小乗仏教と蔑称されたが、正しくは「部派仏教」あるいは「アビダルマ仏教」と呼ぶべきであろう。釈迦入滅後100年、アショーカ王(前3世紀)のころ、仏教教団は保守的な上座部(テーラバーダ、theravaada、sthaviravaada)と進歩的な大衆部(だいしゅぶ、マハーサンギカ、mahaasaaGghika)とに分裂した。原因は不詳だが、戒律や教理の解釈の対立と思われ、これを根本分裂と呼ぶ。
以後、分派が繰り返され、上座部系11部派と大衆部系9部派の、いわゆる「小乗20部」が成立した。この20部派と、これらの部派が伝えた経・律・論の教説が「部派仏教」と言われる。
代表的な部派は、西北インドの説一切有部(せついっさいうぶ)、中西インドの正量部(しようりようぶ)、西南インドの上座部の上座部系統と、南方インドの大衆部などがある。
大乗仏教から特に批判されたのは「説一切有部」である。彼らがもっとも多くの比丘を擁していただけでなく、三世実有・法体恒有を主張し、存在としての法が実在するとしたから、存在が空であるとした大乗仏教から批判を受けた。
スリランカに伝えられた上座部は、特に「南方上座部」と呼ばれ、ミャンマー、タイ、カンボジアなどの東南アジア諸国に伝わり今日にいたっている。
上座部系の法蔵部や経量部の教理は、大乗仏教の教理と一致することが多く、大乗仏教成立の起源に彼らの教理の影響があったと考えられている。
分裂の様子
部派の分派の様子は、北伝と南伝では少し異なっている。それを図示すれば以下のようになる。 (北伝) 20部派
大衆部─┬─────────┬─────
├ 一説部 ├ 制多山部
├ 説出世部 ├ 西山住部
├ 鶏胤部 └ 北山住部
├ 多聞部
└ 説仮部
上座部─┬─雪山部───────────────
└ 説一切有部─┬───────────
├ 犢子部─┬─────
│ ├ 法上部─
│ ├ 賢冑部─
│ ├ 正量部─
│ └ 密林山部
├ 化地部─┬─────
│ └ 法蔵部─
├ 飲光部───────
└ 経量部───────
(南伝) 18部派
大衆部─┬─────────────────────────────
├ 鶏胤部───┬─────────────────────
│ ├ 多聞部─────────────────
│ └ 説仮部─────────────────
├ 一説部─────────────────────────
└ 制多山部────────────────────────
上座部─┬─────────────────────────────
├ 化地部─┬───────────────────────
│ └説一切有部┬─────────────────
│ └飲光部┬─────────────
│ └説転部┬─────────
│ ├経量部──────
│ └法蔵部──────
└ 犢子部─┬───────────────────────
├法上部────────────────────
├賢冑部────────────────────
├密林山部───────────────────
└正量部────────────────────
上座部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』上座部 (じょうざぶ、theravaada(pali)、sthaviravaada(sanskrit))
釈迦の没後100年ほど後、十事の非法、大天の五事などの「律」の解釈で意見が対立し、教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)とに根本分裂して、部派仏教時代と呼ばれる。その後、教団はさらに枝末分裂を繰り返すが、上座部系の代表的な部派は、インドで最大であった説一切有部(せついっさいうぶ)や、スリランカにまず伝わり今日まで存続している分別上座部(南方仏教、上座部仏教)、そのほか、経量部(きょうりょうぶ)・化地部(けじぶ)・法蔵部(ほうぞうぶ)・犢子部(とくしぶ)・飲光部(おんこうぶ)・正量部(しょうりょうぶ)などである。上座部系は主として西方・北方インドに広まり、概して有力であった。
大衆部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』 大衆部 (だいしゅぶ、mahaasaaghika(sanskrit,pali))は古代インド仏教の部派のひとつ。釈迦の没後100年ほど後、十事の非法、大天の五事などの「律」の解釈で意見が対立し、教団は保守的な上座部(じょうざぶ)と進歩的な大衆部とに根本分裂して部派仏教時代と呼ばれた。
その後、教団はさらに枝末分裂を繰り返し、大衆部からは一説部(いっせつぶ)・説出世部(せつしゅっせぶ)・鶏胤部(けいいんぶ)・多聞部(たもんぶ)・説仮部(せっけぶ)・制多山部(せいたせんぶ)などに分裂した。大衆部系は主として中インドから南インドに広まり、概して勢力は小さかった。大衆部は、上座部系の説一切有部(せついっさいうぶ)から分裂した経量部(きょうりょうぶ)と共に「現在有体・過未無体」を主張し、説一切有部の「三世実有・法体恒有」説と対立した。
なお、大衆部は大乗仏教の源流とみなされたこともあったが、現在はこの説は否定されている。
根本分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』根本分裂 (こんぽんぶんれつ)とは、釈迦入滅後100年の頃、それまで一つであった弟子たちの集団が、大衆部(だいしゅぶ)と上座部(じょうざぶ)の二つ教団に分裂した事件のことである。
原因については南・北両伝で大きな相違がある。
南伝の『島史 』(ディーパバンサ、diipavaMsa)『大史 』(マハーバンサ、mahaavaMsa)によると、十事問題が分裂の原因である。
十事とは従来の戒律(教団の規則)を緩和した十の除外例であり、この中に「金銀を扱ってもよい」という条項が入っていた。ところが、実際に托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、この布施を認めるかどうかが大きな問題となった。これを認める現実派は、多人数であったので「大衆部」と呼ばれ、この除外例を認めない厳格なグループは少人数で長老上座が多かったので「上座部」と名づけられた。
北伝の『異部宗輪論 』では、五事問題が原因であったという。五事とは、修行者の達する究極の境地である阿羅漢(アルハット、arhat)の内容を低くみなす五つの見解のことである。この五事を認めたのが「大衆部」となり、反対したのが「上座部」となった。
今となってはどちらの説が正しく事件の様相を伝えているのかは明確ではないが、 南伝北伝ともに「上座部」に属するグループが伝えた説であることを知っておく べきであろう。
説一切有部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』説一切有部は、部派仏教時代の上座部から分派した一部派で、部派仏教のなかで 最大勢力。サンスクリット語でサルバースティバーディン(sarvaastivaadin)といい、「有部」と略して呼ぶ。『異部宗輪論 』によれば、成立は前2世紀の前半である。その後しばらくして迦多衍尼子(かたえんにし、kaatyaayaniiputra)が現れ『発智論 』(ほっちろん)を著し、説一切有部の体系を大成したという。現在では、説一切有部の名の出る最古の碑文が1世紀初頭であることから、その成立はやや下って、前2世紀後半と考えられている。
三世実有説
説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。森羅万象を形成するための要素的存在として70ほどの法(ダルマ、dharma)を想定し、これらの法は過去・未来・現在の三世に常に実在するが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間であるという。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。心心所相応説
心理論としては、46の心所(心理現象、これは上述の70ほどの法に含まれる)のおのおのが認識主体としての心と結びつき(相応、チッタサンプラユクタ、cittasaMprayukta)、心理現象が現れるという心心所相応説をとる。また、心と相伴う関係にあるのではなく、物でも心でもなく、それらの間の関係とか力、また概念などの心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう、チッタヴィプラユクタ・サンスカーラダルマ、cittaviprayukta‐saMskaaradharma)の存在を認めた。業論としては、極端な善悪の行為をなしたとき、人間の身体に一生の間、その影響を与えつづける無表色(むひょうしき、アヴィジュニャプティルーパ、avijJaptiruupa)が生ずると主張した。これは現代では心理的影響と考えられるが、説一切有部はこれを物質的なものとみる。
108煩悩
説一切有部は人間の苦の直接の原因を、誤った行為(業)とみ、その究極の原因を煩悩(惑)と考えた。すなわち人間の存在を惑→業→苦の連鎖とみ、これを業感縁起という。それゆえ人間が苦からのがれ涅槃(さとり)の境地を得るためには、煩悩を断ずればよいことになる。このようにして説一切有部は108の煩悩を考え、この断除のしかたを考察した。すなわち四諦の理をくりかえし研究考察することによって智慧が生じ、この智慧によって煩悩を断ずるのである。すべての煩悩を断じた修行者は聖人となり阿羅漢(arhat)と呼ばれる。これが涅槃の境地である。有余涅槃・無余涅槃
説一切有部はこの涅槃を二つに区別した。まだ肉体が存する阿羅漢の境地は肉体的苦があるので不完全とみなし有余依涅槃と呼び、阿羅漢の死後を完全な涅槃とみて無余依涅槃と称した。また釈迦(仏陀)は格段に優れた人格者とみなし、一般修行者は決して仏陀の境地には達せず、阿羅漢までしかなれないと考えていた。これによって大乗仏教が起こった可能性が高く、仏を目指さないからとして部派仏教を小乗仏教と大乗側が誹謗した原因となった。大乗仏教との関係
説一切有部は釈迦の教説を忠実に解釈しようと努めたが、その結果は出家中心主義となり、煩瑣にして膨大な体系は一般人の近づき難いものとなって、大乗仏教の興起をうながした。しかし、同時代および後のインド仏教に量り知れない大きな影響を与えた。ことに『大毘婆沙論 』『六足論 』『発智論 』は説一切有部の教義を述べたもので、『倶舎論 』もまた説一切有部の教義を述べている。その結果、現在有体・過未無体を主張する大衆部(だいしゅぶ)あるいは経量部と対立し、また西暦紀元前後に興った大乗仏教も空の論理を展開して説一切有部の説を批判することによって、大乗仏教の根幹を形づくるのに大きな働きをした。しかし中観派についで登場した唯識派の時代になると説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになっている。
大乗仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』大乗仏教 (Mahayana Buddhism) は、仏教の分類のひとつ。それ以前の仏教と比べてより多くの人を救えるとして、その教えを大きな乗り物に例えたもの。出家僧のみでなく、在家信者も救われるとする。
インドから北方へ陸伝いに伝播したため、北伝仏教と呼ばれるばあいがある。大乗の教えは釈迦入滅の約700年後に龍樹(ナーガル・ジュナ)らによって教典(中論など)の形にまとめられたとされる。
諸行無常を教え、出家者のみが救われると説く上座部仏教を、大乗仏教側からは小乗仏教と呼んでいる。
龍樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』竜樹(りゅうじゅ)
150‐250 年ころのインド仏教の僧。生没年不詳。名前はサンスクリットで「ナーガールジュナ(naagaarjuna)」。南インドのビダルバのバラモン出身で、幼い頃から多くの学問に通じた。シャータバーハナ朝の保護のもと、セイロン・カシミール・ガンダーラ・中国などからの僧侶のために僧院を設けた。この地は後にナーガールジュナコンダと呼ばれる。大衆部・上座部・説一切有部、さらには当時はじまった大乗仏教運動を体系化した。ことに大乗仏教の基盤となる般若経で強調された「空」を、無自性であるから「空」であると論じ、釈迦の縁起を説明し、後の仏教全般に決定的影響を与える。これによって中国や日本では「八宗の祖」と仰がれている。
彼の教えは、鳩摩羅什(クマーラジーバ)によって中国に伝えられ、三論宗が成立。また、シャーンタラクシタによってチベットに伝えられ、ツォンカパを頂点とするチベット仏教教学の中核となる。8世紀以降のインド密教においても、竜樹を著者とする五次第などの多数の文献が著された。
著作
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- 中論(正確には頌のみ彼の著作)
- 説一切有部(せついっさいうぶ)を代表とする実在論を否定し、すべてのものは真実には存在せず、単に言葉によって施説されたものであると説いている。この主張を受け継いだのが中観派である。
- 廻諍論(えじようろん)
- 空七十論
- 広破論
- 十二門論
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- 大智度論(だいちどろん)
- 般若経の注釈書であり、初期の仏教からインド中期仏教までの術語を概説している。
- 十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)
- 大乗菩薩の階位について論述している。ことに易行品によって浄土教の往生と成仏が論証されている。
仏身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』仏身 (ぶっしん、buddha-kaaya(sanskrit))
「仏身」とは、仏の姿をいう。 釈迦の入滅という現実は、弟子たちの間にいろいろの問題を提起したが、その中でも、仏の身体をどう考えるかということは、一つの大きな問題であった。すなわち、人格信仰の問題である。釈迦在世中は、現前に悟りを開いた仏が生身として存在しているから、人々はこの仏に聞きそれに対処できた。弟子達はこの生身(なまみ)の釈迦に頼って生きていた。このような人々に対して、釈迦は在世中、しばしば「肉身をもった仏にたよってはならない」「仏は法をさとったものであるから、法こそ真実のよりどころである」と弟子たちをさとしていた。しかし、眼前に仏を見ている人々にとっては、理屈ぬきにして、その仏に頼ることは仕方のないことである。釈迦の入滅という事実は、大きな問題を弟子たちの間に惹きおこしたのである。
この入滅の事実を見て、弟子たちは在世中の釈迦の言葉「法をよりどころとせよ」を改めて考えることとなった。そこで、釈迦の教えた「法」を通じて釈迦自身(仏)をみようとした。「法」を通し、語られた教えの中に肉身の仏をみようとしたのである。そこでまずあらわれたのが、釈迦の生きておられた現実の身生身(しょうじん)に対して不滅の身である法身(ほっしん)が求められ、それが二身説としてあらわれた。この時、すでに「法身」が永遠不滅の身であり、現実の「生身」は人々を救うために人間に応えて現われた「応身」であると考えられた。
この場合、法身(dharma‐kaaya)は宇宙的一般者とでもいいうるような「法」そのものを意味し、後には「理法身」といわれるようなもので、宇宙身としての道理そのもの、真理そのものであると考えられる。そのような法が具体的な活動態としてあらわれるのが応身(nirmaaNa-kaaya)であり、それは後に「化身」(けしん)ともいわれ、また「応化身」ともいわれ、法が具体的な姿で人々を救い導くために働く姿である。したがって、人間もしくは人間以外として、応化身の働きはは広い領域で考えられた。
後世、法身はまったく「理」として考えられる場面もあるが、本来は釈迦自身を法の中にみようとした弟子たちによって見られた仏であるから、そこには具体的な、もっと人格的なものが考えられた。それが後に「智法身」といわれるようになったと思われ、さらに単なる応化身ではなく、法身に即した応化身、応化身に即した法身として、仏の理想像をえがき、これを礼拝の対象として具象化しようとする時、そこに報身(ほうじん)という考え方があらわれる。
この報身は、その意味で思想的には、なかなか一定しなかった。これは、法身や応身のサンスクリット語は一定しているが、報身をあらわす原語が(niSyanda-buddha)(vipaaka-kaaya)(saMbhoga-kaaya)などと一定していないことでも分かる。
漢訳の報身は「因願酬報」のゆえにといわれ、真如本然の働きと修行の働きとの和合によって現われるからとも説明されるが、原語「niSyanda-buddha」とは「かの如来は、福徳の因より出でたる結果なり」と説明されているから、福徳の行が原因となって自然にあらわされた結果としての仏である。その点「因願酬報」と相応すると思われる。
次に「vipaaka-kaaya」とは「成熟せる身」という意味であり、願行が完成して得られた身の意味である。 また「saMbhoga-kaaya」とは「受用される身」という意味で、人々がこの仏の身体を受用して成仏するという意味である。このような意味で報身という考えかたの中に、やがてそれを具体的に彫刻し絵にしようとして、三十二相八十種好などの仏の相貌がととのえられてきたと思われる。
このように、二身説は三身説となった。さらに、法身に理、智を区別し、理智不二の法身と解釈され、この法身を法そのものの意味で「自性身」(じしょうしん)と呼んだ。また「報身」に自受用、他受用の二身を区別し、応身と化身を区別し、また応化身とするなど種々の説となり、四身説・五身説・六身説が現れる。
法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』法律の関連分野としての法は、法規範を参照。
法 (ほう、dharma (sanskrit)、dhamma (pali)) (仏教用語)
サンスクリット語「ダルマ」(dharma)、パーリ語「ダンマ」(dhamma)は、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常法と訳されている。ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞(dh.ri)からつくられた名詞である。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」などを示すこともある。
仏教では、この法の概念を重要視し、いろいろな使いかたや意味づけがなされた。この法ということばで法則、真理を示し、それから教法や説法も指す。さらに、存在を意味し、具体的な存在を構成する要素的存在を意味する。このように仏教では、ことにその意味や使いかたが多岐にわたっている。
仏教以外の法
この法(dharma)は、仏教の興起以前のインドで長い間、重要な意味を持っていた。ベーダ時代には、「天則」「理法」の意味をもつ「リタ」(Rita)、「法度」を意味する「ヴラタ」(vrata)と併用されている。この「リタ」や「ヴラタ」は天地運行の支配者であり、四季の循環などをも支配するもので、主に神意を表現する。これに対し「法」は人倫道徳を支配するもので、人間生活を秩序づけると考えられた。そこで「法」が、社会の秩序や家庭の秩序をさし、さらに人間の日課も「法」と言われた。
ウパニシャッド時代に入ると、「法」は最高の真理を意味する。ウパニシャッドではブラーフマン〔=梵〕やアートマン〔=我〕などの形而上学的な概念が重要視されたので、この「法」はそれらより低いものと見られた。
やがて仏教の時代に入ると「法」は非常に高い位置をもつようになった。理由は仏教が形而上学的なものをさけ、現実の上にたって一切の真実を明かにしようとする立場にあるからであろう。「法」は全仏教にとって非常に重要な言葉となり、思想となり、実践となった。
仏教の法
仏教において「法」が教えの中心となったのは、釈迦のさとりが「法」の自覚であったことと、その伝道が「法」の伝達であったことに明らかである。「法」をよりどころとし、「法」を規範としての生活こそ仏教者の生活であるという教法は、しばしば経典に見いだされる。前にも述べたように、「法」の概念は仏教では多岐にわたる。ロシアの仏教学者ツェルバッキイなどは、「法」の語をほぼ二義にまとめる。第一は「真理」の意味を中心とする一群、第二は「存在」の意味を中心とする一群である。前者の中には仏教の「教義」「教法」「法則」などの意味があり、後者は「存在するもの」という意味であり、存在の「性質」「徳性」、さらには具体的な存在を構成している実体的要素なども含めて考えられる。
真理
「真理」をあらわす「法」とは、「法をみるものは我をみる。我をみるものは法をみる」と古い経典に説かれるように、仏のさとった法を指す。その意味で仏法であり、それが教説として説かれたという意味で教法である。釈迦のさとった法は、釈迦のドグマではない。「仏がこの世に出ても、出てこなくとも変わりのない法」と経典にあるように、「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり、仏教の主張である。この「法」(=真理)とは、縁起の理である。
この真理としての「法」を、具体的な釈迦の教えでいうと、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印といわれる法であり、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二縁起の法である。このような「法」は中道をいい、仏陀の説かれた苦・集・滅・道の四諦の法でもある。
存在
存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。この場合も、単にそこに現象として存在しているものではなく、「真理のままに」そこに現象として存在しているという意味を考えるべきである。勝義諦(しょうぎたい)とか真諦(しんたい)とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。これらは真理からみられた世間の真相、世俗の立場からみた世間の姿であり、存在をどのように認識するかによる。
この「存在現象」としての「法」について、古くは「能持自相軌生物解」と規定している。これを広義に解釈すると、存在がそれぞれ「存在自身の特相」をもっていて、その特相が軌範となってその存在が何であるかを人々に認識させる。これを「法」というから、我々の認識の対象となるのが「法」である。
古い経典では「いっさいとは五蘊(ごうん)である」と説かれ、五蘊の法といわれるものを「法」という。これは無常変転して、常住ではない現象存在である無常法そのものではなく、存在を存在あらしめている「色・受・想・行・識」の構成要素として、特性と特相をもっているものをいう。 また「いっさいとは十二処なり」ともいわれている。「十二処」とは、認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の認識の対境となるものを指す。「いっさいとは十二処である」というのは、認識における「認識するもの」と「認識されるもの」のいっさいをいう。
このように「法」が存在を意味する場面がある。しかし、ただ現象的に存在しているということではなく、我々か認識したものとしての存在現象と考えられる。 後には、形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法と分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変のを説く。部派仏教の説一切有部や、大乗仏教の瑜伽唯識学派などは、この存在としての法を、五位七十五法とか五位百法とくわしく議論された。
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