説明
ゴータマ・シッダールタ
サッカー族王国の王子として生まれる。29歳で出家、35歳で悟りを開き仏陀となる。80歳で入滅。別名、釈尊、または釈迦。
■ 父:シュッドーダナ王、母:マーヤー、妻:ヤショーダラー、息子:ラーフラ
■ 生誕地:カピラバッツ城(サッカー国王城)近郊、現在のルンビニとプトワールの中間付近
釈尊の生誕と入滅の年
諸説あり。
■ 南方仏教諸国(スリランカ(セイロン)、ミャンマー、タイなど)の定説
BC624年〜544年
■ スリランカのパーリ語史書
BC565年〜485年
■ 宇井白寿、中村元等の説
BC463年〜383年
釈尊の実在の証明
■ 1896年、ドイツ人考古学者、A.A.ヒューラーが、 ネパール/タラーイ盆地/ルンミンデーイ祠でアショーカ王(BC268年〜232年、マウリヤ王朝第3代)建立の石柱を発見。「この地が釈尊誕生のルンビニ村である」という碑文が刻まれていた。
■ 上記発見の1年余り後、インド領ピプラハワーで釈尊の遺骨を納めたと書かれた舎利壷が発掘された。
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マガダ国
首都は王舎城(ラージャガハ、現ラージギル)、釈尊が最初に修行した土地。
マガダ国の聖者、アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタの二人を師として弟子となる。難行、苦行による修行を行うが
成道できなかった。
悟りを開いた後も、ビンビサーラ王、アジャータサッタ王の帰依と経済的支援を得て、教団活動の中心的地域となる。
■ [参考]
釈尊(仏陀)が生きた時代の地図は
bk01-01
[ブッダ最後の旅 --仏陀の足跡を辿る--]
を参照
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釈尊成道の地
35歳の時、難行、苦行では成道できないことを知る。ネランジャラー河のほとりウルヴェラーの地で、村の長者の娘スジャータから乳粥の供養を受けて体力を回復し、近くのガヤ村にある菩提樹下で悟りを開く。現在のブッダガヤ史跡が悟りを開いた場所とされる。
仏陀が最初に教えを説いた(初転法輪という)地
仏陀は悟りを開いて間もなく、カーシー国の首都バラナシー(現在のベナレス)におもむく。バラナシー近郊のミガダーヤ(鹿野苑)(鹿を放し飼いにしている場所)で、かつて難行、苦行を伴に行い、仏陀を見捨てて去った5人の修行者に、その教えを説く。
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仏陀が活動した代表的な地域と精舎
■ 竹林精舎:マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)近郊にあった。 マガダ国ビンビサーラ王が寄進
■ 祇園精舎:コサラー国の首都サーヴァッチー(舎衛城)近郊にあった。
この地の豪商スーダッタが寄進
■ カーシー国の首都バラナシー(現在のベナレス)近郊、ミガダーヤ(鹿野苑)
■ ブッダの十大弟子
□ シャーリプトラ(舎利弗/しゃりほつ):智恵第一
□ マウドガルヤーヤナ(目連):神通第一
□ マハー・カーシャパ(摩訶迦葉/まかかしょう):頭陀第一
□ スブーティ(須菩提/しゅぼだい):解空第一
□ プンナ(富楼那/ふるな):説法第一
□ カッチャーヤナ(迦旃延/かせんねん):論議第一
□ アヌルッダ(阿那律/あなりつ):天眼第一
□ ウパーリ(優波離/うぱり):持律第一
□ ラーフラ(羅[喉]羅/らごら):密行第一:(注):[喉]は、正しくは[目]偏
□ アーナンダ(阿難):多聞第一
シャーリプトラ(舎利弗)とマウドガルヤーヤナ(目連)の二人は、釈尊より先に死んでしまう。目連は、バラモン教徒の迫害による殉教であった。
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仏陀の晩年に起こったマガダ国の事件
ビンビサーラ王の子、アジャータサット(阿闍世)が父王を幽閉、殺害して王となる。この事件は、経典の中ではデーヴァダッタ(提婆)の叛逆と深く関係づけて記述されている。仏陀の弟子デーヴァダッタは、自分の利益と尊敬を得るために、将来王位を継承するであろうアジャータサット王子に近付く。アジャータサット王子から多くの利益と尊敬と賞讃を得るにいたって、デーヴァダッタは、自分が教団のリーダーになるべきであると主張し、仏陀に退陣を要求する。仏陀は、
デーヴァダッタの主張と行動は、仏法僧(仏陀とその教えと、教団)に背くものであるとして彼を破門する。
デーヴァダッタは、アジャータサット王子に父王を殺害して王となるようそそのかし、自分も仏陀を殺害して、教団のリーダーになると約束する。アジャータサットは、父王を幽閉して王となった後、父王を殺害する。デーヴァダッタは、アジャータサットの部下を仏陀のもとに送って殺害しようとしたり、山上から岩を落したり、仏陀に暴れ像をけしかけたりして殺害しようとするが、いずれも失敗する。
アジャータサット王は、後にカーシー国に攻め入り、パセーナディ王との戦いに負ける。軍隊を奪われてラージャガハに逃げ帰ったアジャータサット王は、それまでの自分の行った罪を懺悔し、生涯、仏陀に帰依することを誓う。
■ [参考]
□ 仏教聖典 / 友松圓諦著、講談社学術文庫、昭和56年8月10日発行
第39章 提婆の反逆(P316-334), 第43章 阿闍世王の懺悔(P346-353)
原典は「阿含経」
□ この事件を題材にした小説として、阿闍世王物語 / ひろさちや著 新潮社
2000年3月15日発行 があります。
サッカー王国の滅亡
仏陀が悟りを開いてまだ間もない頃、コサラー国のパセーナディー王は、サッカー族の女性を自分の妻として差し出すよう、サッカー族に命じる。サッカー族は、パセーナディー王と縁戚になることを快く思わず、マハーナーマと言う者の婢(しもべ)の娘を偽って差し出す。
生まれた王子(ヴィデゥーダッバ)が成長し 8歳になったとき、カピラバッツに留学するが、自分の母がサッカー族の女性ではなく、婢(しもべ)の娘であることを知り、サッカー族に怨みをいだく。やがてヴィデゥーダッバは王となり、幼少の時の怨みをはらすべく、サッカー国に攻め入ろうとする。仏陀が、サッカー国の手前でヴィデゥーダッバ王を制するが、ヴィデゥーダッバ王は、三度目に、ついに攻め入る。
サッカー族の人々は、仏教に帰依しており虫すら害することを忌避していたため、戦わずしてカピラバッツ城を開け渡す。ヴィデゥーダッバ王は、カピラバッツ城を焼はらい、破壊する。
その後の、ヴィデゥーダッバ王の話
ヴィデゥーダッバ王がカピラバッツ城を攻め滅ばしてサーヴァッチーに帰ってみると、息子のジェータ太子が妓女と遊び戯れていた。怒った王は太子を切殺してしまう。仏陀は、ヴィデゥーダッバ王とその兵達がことごとく滅ぶであろうと予告する。
7日後、王とその兵達、女達がアチラヴァッチー河の傍で娯楽にふけっているとき、突然暴風と洪水が起こり、全員が滅んでしまう。
■ [参考]
□ 仏教聖典 / 友松圓諦著、講談社学術文庫、昭和56年8月10日発行
第45章 カピラ城の滅亡(P362-372)
原典は「阿含経」
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仏陀の入滅
■ クシナーラで火葬される。仏陀最後の遊行と入滅時の様子は
bk01-01
[ブッダ最後の旅 --仏陀の足跡を辿る--]
を参照。
■ 生誕の地(カピラバッツ)、成道の地(ブッダガヤ)、初転法輪の地(バラナシー)、
入滅の地(クシナーラ)は、仏陀が言い残した四大聖地である。
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第一結集(けつじゅう)/(五百結集)
仏陀入滅後間もない頃、ラージャガハ近郊にある靈鷲山(りょうじゅせん)/(ギジャクータ山/鷲の峰)近くの七葉窟に
5百人の弟子達が集まり、教団の運営について協議し、戒律を定めた。その時の指導者は摩可迦葉(マハー・カーシャパ)。アーナンダ(阿難)が仏陀の教えを口誦し、仏陀の教えを確認しあったとされている。この時期にはまだ経典は成立していなかった。
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第二結集
第一結集の約100年後、教団、僧侶に対する布施をどのように扱うかで、
教団の戒律をあらためて議論した。教団は、それまでの戒律を厳しく守ろうとする上座部と布施に対して寛容である大衆部に分裂する。
■ [注]
□ 本来仏教教団は、働かない、生産しない集団であり、教団の僧侶達が生きるには、在俗の信者や一般市民から食物や衣類、必要最低限の生活物資の布施に頼らなければならない。仏教が広がり、インドの貨幣経済が発達するにつれ、裕福な信者から金銭や、必要以上の食物などが布施されるようになると、それをどう扱うかは、仏教の根本にかかわる問題となったと考えられる。
□ 上座部の教えは、南方仏教諸国の仏教として現在に至っている。特にタイ仏教は釈尊在世中のものに近い部派仏教(上座部仏教)の戒律が厳しく守られている。
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部派仏教の時代
第二結集の後、教団は各種の部派に分裂していく。
以下に、南伝(「島史」)、および北伝(玄奘訳「異部宗輪論」)による部派分裂の系譜を示します。
[注]
■ 北伝 20部 では、初期上座部は部派として数えられていません。雪山部(せっせんぶ)が根本上座部とされています。
■ 南伝「牛家部(ぎゅうかぶ)」は、北伝「鶏胤部(けいいんぶ)」に相当します。
■ 南伝「跋闍子部(ばっじゃしぶ)」は、北伝「犢子部(とくしぶ)」に相当します。
■ その他部派の読みがな
大衆部(だいしゅぶ)、上座部(じょうざぶ)、多聞部(たもんぶ)、説仮部(せっけぶ)、一説部(いっせつぶ)、制多山部(せいたせんぶ)、化地部(けじぶ)、説一切有部(せついっさいうぶ)、飲光部(おんこうぶ)、説転部(せつてんぶ)、経量部(きょうりょうぶ)、法蔵部(ほうぞうぶ)、法上部(ほうじょうぶ)、賢冑部(けんちゅうぶ)、密林山部(みつりんせんぶ)、正量部(しょうりょうぶ)、説出世部(せつしゅっせぶ)、西山住部(せいせんじゅうぶ)、北山住部(ほくせんじゅうぶ)
[参考資料]
■ 大唐西域記-1(全3巻) 補注(P278-279)/玄奘 著/水谷真成 訳注 (平凡社、東洋文庫653 1999年5月7日発行)
■ 岩波 仏教辞典 第2版 [部派仏教]/中村元 他編集 (岩波書店 2002年10月30日発行)
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第三結集
第二結集から約100年後、BC3世紀、マウリヤ王朝第三代アショーカ王(BC268年〜232年)の時代、首都パータリプッタ(現在のパトナ近郊)に1000人の比丘が集まり、インド各地へ伝道師派遣を決定する。この決定に基づき、アショーカ王の王子マヘンダ比丘、王女サンガミッター比丘尼がスリランカ(セイロン)に派遣される。
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シルクロードが開かれる
BC202年、前漢(BC202年〜8年)が成立する。 この頃、インドは部派仏教の時代であり、大乗仏教はまだ成立していない。
第七代武帝が、張騫(ちょうけん)をパミール高原、大月氏国や大宛国に派遣する。張騫は、匈奴に対抗する軍事同盟を結ぼうとするが失敗し、出発後13年目の
BC126年に長安に戻る。武帝は、更に衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい)を派遣して匈奴を討つ。こうして、西域への交通路確保をはかった。それにより、タクラマカン砂漠を横断する交易路が確立される。これがシルクロードである。
タクラマカン砂漠の南側ルートが西域南道、タクラマカン砂漠の北側、天山山脈の南側のルートが天山南路、天山山脈北側ルートが天山北路である。
中国から見ると、楼欄が西域南道と天山南路の分岐点、。また、トルファンが天山南路と天山北路の分岐点である。
西域南道は、楼欄、チェルチェン、ホータン、ヤルカントを経てカシガルで天山南路に合流する。
天山南路は、楼欄、コルラ、クチャを経て、アクスで天山北路(トクマク)方面とカシガル方面に分岐する。
一方、トルファンからは、天山南路(コルラ)方面と天山北路(ウルムチ)方面に分岐する。
天山北路は、トルファン、ウルムチ、イリ、アルマアタ、トクマクを経てタシケント、サマルカンドへ抜ける。
■ [参考]
シルクロードとインド仏教関連地名の地図を掲載しました(461KB)
http://www.lib.utexas.edu/maps/middle_east_and_asia/asia_ref802643_99.jpg
をもとに、
□ 仏教史入門/山野上純夫 著/朱鷺書房 1993年発行
□ 基本高等地図2002-2003/二宮書店 平成14年(2002年)発行
□ 世界地図帳/野村正七 編著/昭文社 1983年発行
などを参考に主要な都市をプロットしたものです。地図上の経路は必ずしも正確な根拠があるわけではありません。上記参考地図と地形を照合しながら作成しました。
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中国への仏教伝来
漢王朝と仏教の接触は、後漢(25年〜220年)の時代である。 後漢第二代明帝が経典を求めて使者を西域に派遣する。67年、後漢第二代、明帝の時代、
インドから竺法蘭(じくほうらん)と摩騰迦葉(まとうかしょう)の二人の僧が、首都洛陽に入り、白馬寺を建設する。
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第四結集
2世紀、クシャン王朝第三代カニシカ王(143年〜173年)の時代
北インドのカシミールに500人の比丘が集まり、経・律・論の三蔵(経典)の編纂を行う。この頃、部派仏教の形式化が進む。
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大乗仏教が起こる
大乗仏教は、それまでの仏教(部派仏教)が形式化し、自分の悟りを得ることだけを目的としていることを批判し、仏教の原点である自分の悟りと大衆の救済を掲げて起こった新しい仏教思想である。自らを大乘(大きな乗物)と称し、それまでの仏教(部派仏教)を小乗(小さな乗物)と批判した。
なお、「小乗仏教」は大乘仏教から見た批判的表現であるが、これを評価する立場からは「原始仏教」とも呼ばれる。
大乘仏教は、「空の」思想(「般若心経」がその思想を述べた代表的経典である)を根本とし、自らの悟りを開くとともに、大衆の救済を目指した。
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大乘経典の成立
2世紀半ば、龍樹(ナーガールジュナ)がインドで大乘経典の編纂に活躍する。
この頃に成立した代表的経典して、「浄土三部経」(無量寿経、觀無量寿経、阿弥陀経)、「法華経」などがある。
観音菩薩に代表される、自分の悟りと大衆の救済を目指す修行者として、菩薩が経典の中に途上する。特に、「無量寿経」に途上する法蔵菩薩は、一切の人々を救済できなければ、自分の悟りはないとの大願を掲げた菩薩であり、その大願を掲げた時に阿弥陀仏となる。法蔵菩薩が、阿弥陀仏となったそのときに、すでに一切の人々は救済されているという思想は、後に日本の浄土真宗のより所となる。
竜樹以降、大乗仏教は中観学派と唯識学派などの学問仏教の性格を強める。
■ 大乗仏教における仏、三身仏(さんしんぶつ)の思想
□ 法身仏(ほっしんぶつ)
□□ 仏法の真理そのものという説
□□ 部派仏教では釈尊(釈迦如来)という説
□□ 大乗仏教では毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という説
□□ 密教では大日如来(だいにちにょらい)という説
□ 応身仏(おうじんぶつ)
法身仏が衆生の願に応じて姿を変えて出現する仏、釈迦如来
□ 報身仏(ほうじんぶつ)
修業を積んだ菩薩が如来に昇格した仏、阿弥陀如来
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中国における漢訳経典の編纂
後漢第十一代桓帝の時代
148年、 安息国(ペルシャ東北部)から安世高が首都洛陽に入り小乗経典(原始経典)の漢訳を行う。150年、
大月氏国(アフガニスタン)から支婁迦[纖](しるかせん)が中国に入り、大乘経典の漢訳を行う。
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サンクスクリット経典の成立
インド、 4世紀に成立したグプタ王朝以降、サンスクリットにより経典が書かれるようになる。
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朝鮮への仏教伝来
372年、 高句麗、小獣林王の時代に中国前秦王、苻堅(ふけん)が僧道順を派遣して仏像や経典をもたらす。百済には、384年、西域出身の僧摩羅難陀が仏教を伝える。538年、百済の聖明王が日本に国使を送り仏教を伝える。
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中国僧、法顕がインドを訪れる
4世紀前半、中国僧、法顕(ほっけん)が平陽(現在の山西省臨汾付近)に生まれる。
399年、インドを目指して長安を出発する。403年にガンジス河流域に到着し、仏陀の四大聖地、祇園精舎、靈鷲山などを訪れた後、パータリプトラ市(現在のパトナ近郊)に
3年、カルカッタ付近の多摩梨帝(ターマリプティ)国に 2年、更にスリランカに立ち寄った後、経典を携えて海路中国に戻る。412年、中国山東省に帰る。その記録として、「高僧法顕伝」を残す。
法顕のインドへのル−ト
長安 − 敦煌 − シャンシャン(トルファンのやや西) − クチャ − タクラマカン砂漠横断
− ホ−タン − カシガル − パミ−ル高原越え − ペシャワル(イスラマバ−ドのやや西)
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鳩摩羅什による本格的な漢訳経典の編纂
鳩摩羅什(クマラジーバ/350年〜409年)は、 インド人と亀茲(きじ)/(新疆ウィグル自治区/クチャ)人の混血
中国、五湖十六国時代、南北朝時代
苻堅(ふけん)が華北を統一し、前秦を建国。 382年、亀茲を攻め落とし鳩摩羅什を連れ帰るよう部下の呂光に命じる。しかし、苻堅は東晋との戦いに負け長安に逃げ帰り、部下の姚長(ようちょう)に捕らえられる。苻堅は自殺し、姚長は後秦を興す。
呂光は、亀茲を占領し鳩摩羅什を連れ帰ろうとするが、連れ帰るべき国がもはやない。そこで、途中の武威にとどまり、後涼を建国する。鳩摩羅什は、この地に17年間とどまり漢語を学ぶ。
401年、 姚長のあとをついで後秦王となった姚興(ようこう)が後涼を攻略し、鳩摩羅什を長安に連れ帰る。鳩摩羅什はサンスクリット原典から漢訳経典を編纂し、中国で没す。
代表的漢訳経典として、「大品般若経」、「金剛般若経」、「妙法蓮華経」、「阿弥陀経」、「維摩経」などがある。これらの漢訳経典は、現在も貴重な経典資料とされている。
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ナーランダ寺院の建設
マガダ地方を中心に起こったグプタ王朝第四代クマーラグプタ一世(415年〜454年)の時代。ラージャガハ(王舎城)近郊に仏教の研究センターとしてナーランダ寺院が建設される。
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中国における宗派仏教の成立
隨王朝(589年〜618年)、唐王朝(618年〜907年)の時代
インドから多くの仏教思想が入り、漢訳されるにしたがい、どの仏教思想や経典が優れているかを評価し、それによって各種の宗派仏教が成立した。
■ 天台宗
「法華経」を拠所とする。慧文−慧思−天台智[覬](てんだいちぎ/538-597年)によって大成される。天台智[覬]は、575年、
37歳で浙江省天台山で天台教学を築く。200年後、最澄が天台山に学び、比叡山延暦寺で日本天台宗を開く。
■ 浄土教
阿弥陀仏の願力(他力)に救われて浄土に生まれるとする易行道の教え。
曇鸞(どんらん/476年〜542年)が確立し、 道綽(どうしゃく/562年〜-645年)−善導(ぜんどう/613年〜681年)へと継承され発展した。
「浄土三部経」を拠所とする。日本の浄土宗、浄土真宗、時宗の源流となる。
■ 禅宗
インド僧、菩提達磨(ボーディー・ダルマ)が中国で教えを開いた。以心伝心、不立文字(ふりゅうもんじ)などの思想により、言葉や文字ではなく、坐禅による体験によって悟りを開くという教え。
南宗と北宗に分かれる。
□ 南宗
慧能(えのう/638年〜713年)が開いた禅宗の分派。 坐禅を行うことにより直ちに悟る(頓悟)とする。黄檗希運(?〜850年)−臨済義玄(?〜867年)が出て、禅思想を高める。この法流が日本の臨済宗、黄檗宗の源流となる。また、東山良价(とうざんりょうかい/807年〜869年)の法流から、
日本の曹洞宗が生まれる。
□ 北宗
神秀(じんしゅう/?〜706年)が開いた禅宗の分派、坐禅により次第に悟りを開く(漸悟)とする。
■ その他、華厳宗、三論宗、法相宗、律宗などの学問宗または論宗が発展した。これらは奈良仏教に大きな影響を与えた。
■ 華厳宗
第三祖、法蔵(643年〜711年)が活躍、「華厳経探玄記」、「大乗起信論義記」などの著作を残す。
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日本への仏教伝来
538年、 百済の聖明王から日本の欽明天皇のもとへ釈迦如来蔵と経典が送られる。蘇我氏は崇仏派、物部氏は排仏派となり
589年両派が武力衝突し、嵩仏派の蘇我氏が物部氏を滅ぼす。聖徳太子(574年〜622年)は、蘇我氏につき、戦いの後、報恩のため大阪に四天王寺を建立する。
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密教の成立
7〜8世紀、大乘仏教もまた時代とともに初期の思想を失い、学問仏教化していく中で、ヒンドゥー教との融合、仏像信仰、現世利益志向などが進み、それらの影響を受けて密教が生まれる。竜智がこの時代に活躍したとされている。密教の代表的経典として、
7世紀半ばから後半にかけて、「金剛頂経」(金剛界)と「大日経」(胎蔵界)がインドにおいて、成立する。唐第六代玄宗皇帝即位(712年)の直後に中国に伝わる。
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玄奘三蔵のインド入国と経典の漢訳
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう/602年〜664年)、洛陽に生まれる。成都で修行し、20歳で正式な僧侶となる。23歳で長安に入り、法常、僧弁から教えを受けるが、疑問を解くためにインド訪問を決意する。629年、単身でインドへ旅立つ。
インドへの経路
長安 − 涼州(武威) − 敦煌 − ハミ − 高昌国(トルファン) − クチャ − 天山山脈越え − トクマク(ビシュケクのやや東) − タシケント − サマルカンド − ヒンドゥ−クシ山脈越え − バ−ミヤン − カブ−ル − ペシャワル(イスラマバ−ドの西)
特に、高昌国(トルファン)王から財物支援と天山南路、天山北路沿いの安全保証を受けた。633年インド中部に到達、当時の中部インドを統一したマガダ国のシ−ラ−ディ王(605年〜647年)に迎えられ、首都カノ−ジュに着く。
ナ−ランダで「十七度論」、「瑜伽論(ゆがろん)」、「順正理論(じゅんしょうりろん」、「顕揚聖教論(けんようしょうぎょうろん)」などを学ぶ。
645年、657部の経典と仏像をたづさえて長安に戻る。帰りは西域南道コ−スをとる。帰国後、「大唐西域記」を著述する。持ち帰った経典の漢訳事業に着手し、約20年かけて「大般若教」、「摂大乗論」、「成唯識論」などの漢訳をおこなう。
玄奘の門下には、653年長安に渡って玄奘に師事した奈良元興寺の道昭、観音寺の智通、智達がいた。
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チベットへの仏教伝来
7世紀半ば、640年前後にインドから仏教が伝わる。チベット語訳経典は、サンスクリット原典を忠実に逐語訳されており、原典に代わる役割を果たすことがある。
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義浄三蔵のインド入国
義浄三蔵(ぎじょうさんぞう/635年〜713年)、唐第三代高宗の時代、671年、広州から海路でインドへ向かう。途中スマトラのシュリーヴィジャヤでサンスクリットを学び、673年、インドタームラリプティーに上陸。12年間ナーランダ寺院で学び、海路帰途に着く。再度スマトラに立ち寄り10年間滞在する。659年、洛陽に戻る。
帰国後、「金光明最勝王経」を漢訳する。また、スマトラ滞在中に、「大唐西域求法高僧伝」、「南海帰寄内法伝」を著述する。
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行基(668年〜749年)
和泉(大阪)の生まれ。唐から帰った道昭の弟子となり、682年飛鳥寺(元興寺)で出家する。行基は畿内各地を回り、49カ所の寺院を建て、橋をかけ、道をつくり、池や水路を堀るなど、社会福祉活動に力をつくす。
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善無畏(シュバカラシンハ/637年〜735年)
東インドオリッサ地方、鳥荼(うだ)国の王子として生まれる。ナーランダで大乗仏教と密教を学び、中国へ布教するため、シルクロ−ドを経由して
716年、長安に入る。
西明寺菩提院で「虚空蔵求聞持法」を漢訳する。当時、長安に滞在していた奈良、大安寺の道慈がこの経典を筆写し日本に持ち帰る。後に、弘法大師空海がこれを読んで仏道に志したといわれる。724年、洛陽に移り、「大日経」を漢訳する。
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金剛智が密教を中国に伝える
719年、インド僧、金剛智(ヴァジュラボーディー/670年頃〜741年)が、海路で中国広州に上陸、長安を経て、洛陽に入り、20年間にわたり密教経典の漢訳と布教活動をおこなう。
密教の系譜
第一祖:大日如来
第二祖:金剛薩[垂]
第三祖:竜猛菩薩
第四祖:竜智菩薩
第五祖:金剛智三蔵(インド僧)
第六祖:不空金剛三蔵(中国僧)
第七祖:恵果阿闍梨(中国僧)
第八祖:弘法大師空海(日本僧)
第四祖、竜智菩薩は、7世紀後半以降の人物(伝説上の人物とも見られる)
■ 金剛頂経系(金剛界)密教の系譜
竜智菩薩 − 金剛智三蔵 − 不空金剛三蔵 − 恵菓阿闍梨 − 弘法大師空海(第八祖)
■ 大日経系(胎蔵界)密教
竜智菩薩 − 善無畏三蔵 − 玄超和尚/一行禅師 − 恵菓阿闍梨 − 弘法大師空海(第八祖)
一行禅師(683年〜727年)
中国人、華北生まれ。719年、金剛智から潅頂(かんじょう)を受ける。724年善無畏の「大日経」漢訳に参加する。後に「大日経」の解説書「大日経疏」を著述する。
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経典の体系化
730年、唐中期、僧智昇が大蔵経を整理し「開元釈教録」を作成する。中国に伝えられたすべての経典を大乗、小乗別に、経・律・論に分類する。
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不空(ア−モガヴァジュラ/705年〜774年)
スリランカ生まれ、または西域出身、北インド出身などの説がある。
金剛智が没した時(741年)は37歳、 2年後インドとスリランカへ渡り、3年後経論をたずさえて長安に帰るが、密教が宮廷内で補助的なものになっていることに失望し、武威の開元寺で密教を教える。その後、教義の整備と訳経につとめる。
文殊信仰の振興に熱意を示し、山西省、五台山に金閣寺、玉華寺を建立する。
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毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)完成
奈良時代、752年(天平勝宝4年)孝謙天皇の代、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が完成する。奈良仏教、南都六宗(華厳宗、律宗、法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗)の全盛を向かえる。
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鑑真和尚(688年〜763年)
第九次遣唐使として入唐した興福寺の僧栄叡と普照が鑑真のもとを訪ね、是非日本に正しい戒律を伝えて欲しいと懇請する。唐政府は鑑真の外国行きを許可しなかったが、鑑真は6回の渡航を試み、遂に753年薩摩に上陸する。年齢は66歳であった。
鑑真のために東大寺に戒壇院が建てられる。
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恵果阿闍梨(746年〜805年)
長安の郊外で生まれる。17歳で不空より潅頂(かんじょう)を受ける。22歳で、玄超和尚から大日経系教義を相承、不空から金剛頂系教義を相承する。恵果によって金剛界、胎蔵界の総合化が行われる。
805年、日本から空海が恵果のもとに来る。 後継者をなくしていた恵果は、空海に密教の伝法潅頂を行う。
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最澄(767年〜822年)
近江(滋賀)古市郷に生まれる。758年奈良東大寺で受戒し、官僧となる。
受戒後ただちに比叡山にこもり一乗止観院(今日の延暦寺根本中堂の前身)を建てる。
804年、 中国天台山で法華経を学ぶため、還学生(げんがくしょう)として第十六次遣唐使船団に乗り九州を出発、嵐に会い浙江省に漂着する。天台山に登り、道隧、行満から天台宗の教えを受けるとともに、
善無畏(シュバカラシンハ/637年〜735年)の孫弟子順曉から密教の伝法潅頂(でんぽうかんじょう)を受ける。805年帰国、比叡山延暦寺に天台宗を開く。
法華経に代表される大乗仏教と密教の一体化(顕密一致)をめざした。
空海(774年〜835年)
讃岐の生まれ。18歳で奈良の都の大学に入るが退学、私度僧として十数年間山林修業に加わる。31歳で奈良の都で官試に合格し、東大寺で受戒して官僧となる。
804年留学生として、第十六次遣唐使船団に乗り福建省の海岸に漂着。長安まで旅を続け、805年密教の寺、青竜寺を訪れる。ここで、恵果和尚に出会い、密教の伝法潅頂を受けて第八祖としての地位を継承して、806年帰国、高野山に真言宗を開く。
「弁顕密二経論」を著し、密教の優位性を主張した。
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経典の印刷
971年、宋の太祖が大蔵経を印刷するため版木作成を命じる。 印刷された大蔵経は、「蜀版大蔵経」または「北宋勅版大蔵蔵経」と呼ばれる
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法然(1133年〜1212年)
美作(岡山)に生まれる。15歳で比叡山に入り黒谷、青竜寺に学ぶ。「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで阿弥陀仏の救いにあずかり極楽浄土に往生することができるという浄土宗
(易業道) を確立する。経典として浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)だけを学べばよいという考え方を確立する。
比叡山を下りて浄土宗ををひろめるが、旧仏教の弾圧を受け、1207年約10ヵ月四国へ流罪となる。「選択本願念仏集」を著述する。
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親鸞(1173年〜1262年)
9歳で出家、比叡山に入り20年間学ぶが、満足できなかったため、 比叡山を下り法然の思想を更に発展させた浄土真宗の思想を確立する。念仏は極楽浄土への往生を願って唱えるのではなく、すでに救っていただいていることに対する報恩、感謝の念仏であると解く。
善人でさえ救われることが決まっているのに、最も救われべきである悪人がどうして救われないことがあろうかという「悪人正義」説を唱える。
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栄西(1141年〜1215年)
日本の臨済宗の祖。備中(岡山)に生まれる。13歳で比叡山に入る。1168年、最澄の教えを究めるため中国天台山へ出発する。浙江省、明州に上陸し先に入宋していた南都の僧、俊乗房重源とともに天台山、阿育王山に登り、同年帰国する。
1187年再度入宋し、天台山に登るが、天台山は、すでに天台仏教が衰え、臨済禅の道場となっていた。ここで出会った黄竜禅第八世とともに天童山に移り参禅修行する。
1191年、黄竜禅相承の印可を受け帰国する。帰国後「興禅護国論」を著述する。鎌倉幕府の加護を受け、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺が建てられた。
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道元(1200年〜1253年)
日本の曹洞宗の祖。14歳で出家して比叡山に入る。建仁寺、明全から禅の指導を受ける。1223年、明全とともに入宋、天童山に登り、長翁如浄から曹洞禅を学ぶ。「身心脱落」の境地を会得する。1227年帰国、建仁寺で「普勧坐禅儀」を著述。その内容が比叡山を刺激したため、建仁寺を追われ、越前(福井)に永平寺を建て、「正法眼蔵」を著述する。
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日蓮(1222年〜1282年)
安房(千葉)に生まれる。12歳で出家、21歳で比叡山に入る。横川、定光院で約10年間学ぶ。天台智[覬](てんだいちぎ)と最澄(さいちょう)の著作から法華経が最上の教えであると確信し、日蓮宗を確立する。「立正安国論」を著述する。他宗派を激しく攻撃したため、浄土宗徒から襲われたり、鎌倉幕府によって伊豆へ流されたりする。放免後も他宗への攻撃が激しかったため、再び佐渡へ流される。再び放免された後、身延(山梨)に小庵を建て、晩年を過ごす。
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一遍(1239年〜1289年)
伊予(愛媛)に生まれる。10歳で出家、浄土宗西山派、証空の高弟、聖達について念仏門を学ぶ。1271年、33歳のとき、信濃(長野)善光寺に参籠して善導大師の教えを感得し、一切の所有物を捨て全国布教の旅に出る。生涯、寺を持たず、草庵も持たず、遊行遍歴する。親鸞の思想を更に発展させ、徹底した絶対他力の念仏門として「時宗」を確立する。
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